近年のヒップホップを聴いていると、同じヒップホップという枠組みのなかにありながら、まるでハードバップとフュージョンほど前提の異なる音楽が共存しているように感じることがある。
もちろん、両者を単純に対応させることはできない。しかし、作品がどこから立ち上がるのかという視点で見たとき、この比喩は意外なほど多くのことを説明してくれる。
近年のヒップホップを聴いていると、同じヒップホップという枠組みのなかにありながら、まるでハードバップとフュージョンほど前提の異なる音楽が共存しているように感じることがある。
ハードバップは、1950年代を中心に発展したジャズのスタイルで、ブルースやゴスペルの感覚を背景に、演奏者の個性や即興の熱量を重視する。一方、1970年代に発展したフュージョンは、ジャズを軸にロックやファンクなどの要素を取り込み、電気楽器やスタジオ録音の技術も活用しながら、音色やリズム、アレンジを含めた新しいサウンドを追求した。

もちろん、ハードバップにも緻密な構成はあり、フュージョンにも演奏者の個性や即興の魅力がある。両者を単純に対立させることはできない。それでも、演奏者の身体や即興の展開に音楽の重心を置く方向と、音色やアレンジを含めたサウンド全体を構築する方向という違いは、ひとつの手がかりになる。

この視点で見ると、ヒップホップにも似た違いが見えてくる。
ヒップホップは、サンプリングや引用、コラージュを重要な表現手段として発展してきた。その意味では、当初からポストモダン的な編集の感覚を内包していた。しかし同時に、ラップする身体や、そこに刻まれた経験も音楽の中心にあった。
既存の音楽を切り取り、組み替えること。そして、その上に自分の声や経験を刻み込むこと。この二つが共存しているところに、ヒップホップの面白さがある。
90年代のヒップホップを聴いていた人間にとって、「どこからサンプリングしたのか」は重要な鑑賞行為だった。

DJ プレミアは何を掘ったのか。ピート・ロックはどのレコードからこの数秒を切り出したのか。RZAはどんな映画音楽を持ち込んだのか。
リスナーはインタビューを読み、サンプルソースを探し、時には原曲にまで遡った。ヒップホップを聴くことは、音楽史を掘ることでもあったのである。

ビートの背後にはジャズやファンク、ソウルや映画音楽が重なっていた。サンプリングとは、過去の音を再現することではなく、その音が持っていた時間や意味を別の文脈へ移し替えることでもあった。
一方、トラップ以降のヒップホップでは、サンプリングの出典や音楽史的なつながりを知らなくても、サウンドそのものの魅力が強く成立する作品が増えていった。
もちろん、トラップにも歴史があり、過去の音楽とのつながりが失われたわけではない。しかし、音楽の魅力がサンプルソースの発掘よりも、音そのものが生み出す感覚に置かれる場面が増えていったことは確かだろう。

サウンドデザインや空間処理、808の低音やハイハットの連打によって生み出される現在性そのものが、作品の価値になる。
それはファッションにも近い。歴史や文脈を知らなくても成立し、いまこの瞬間にどのような感覚を生み出すかが重要になる。
ここで、「ヒップホップのハードバップ」と「ヒップホップのフュージョン」という比喩が意味を持ち始める。
例えば、モブ・ディープや ウータン・クラン、近年であれば グリセルダ周辺の作品では、ラップとビートの関係に独特の生々しさがある。

ビートは声のためにあり、声は経験を刻み込むためにある。
そこには高度なサウンドデザインも存在するが、作品の中心には、声を通して伝わる経験や、そこから抜けきれない時間が残されている。

何が語られているのか。どのような人生がそこに沈殿しているのか。リスナーはサウンドだけでなく、その背後にある主体の経験を聴くことになる。
ベニー・ザ・ブッチャーやローム・ストリーツ、あるいは近年の ハヴォックの作品に感じる生々しさは、こうしたところから生まれているのだろう。経験がきれいに整理される以前の手触りが、ラップとビートの関係に残っている。

一方、近年のAZやジョーイ・バッドアスには、別種の魅力がある。
そこでは、ラップの技術や音楽的な伝統、経験やイメージが、洗練されたスタイルとして組み立てられている。ラップは磨き上げられ、ビートは美しく配置され、アルバム全体には高い統一感が生まれる。
リスナーは人生の断片を追うだけでなく、それらがどのように組み合わされ、ひとつの世界として成立しているかを味わう。作品はドキュメントであると同時に、デザインとしての性格を強めていく。
これは決して劣化ではない。熟達の結果であり、一つの到達点である。
重要なのは、経験が失われたということではない。経験が作品を直接的に動かすのか、それとも経験やイメージが整理され、ひとつのスタイルを構成する要素として働くのか。その違いである。

ハードバップでは、誰が吹いているのか、どのような即興が生まれるのかといった、演奏者の個性や身体的な反応が音楽の魅力として強く前景化する。
対してフュージョンでは、演奏者の個性を保ちながらも、音色や空間、アレンジ、録音を含めたサウンド全体が重要な要素となる。
もちろん、ハードバップにもデザインはあり、フュージョンにも演奏者の切実さはある。違いは、どちらか一方が存在するかどうかではなく、音楽の重心がどこに置かれているかということだ。
ヒップホップにも、同じような重心の移動が見られる。
経験が作品を引っ張る表現と、作品が経験を組織する表現。前者はドキュメントとしての性格を強め、後者はデザインとしての性格を強める。しかし、この二つは完全に分離しているわけではない。経験は編集されることで作品になり、デザインは経験を組み立てることで意味を持つ。
興味深いのは、トラップによってサウンドデザインが大きく発達した後、ラップとビートの関係を改めて聴き直すような作品が、再び存在感を持つようになったことだ。
しかし、それは単なる懐古主義ではなかった。トラップ以降の耳を獲得したうえで、もう一度ラップの根源を見直す動きだったと考えられる。
だから近年の グリセルダや アルケミスト周辺の作品は、90年代の単なる再演にはならない。

彼らは再び「掘る楽しさ」を取り戻した。サンプルの出典を辿り、ビートメーカーの美学を掘り下げ、音楽史の断片を再発見する。同時に、そこへ現在の声や経験を書き込んでいく。
過去の音楽は、懐かしさを演出するためだけのものではない。現在の作品を組み立てる素材となり、その上に新たな時間が重ねられる。
その意味で、近年の優れたヒップホップは、ドキュメントとデザインの間に存在している。
サンプリングという編集技術を用いながら、主体の経験を失わない。むしろ、過去の音楽と現在の経験が組み合わされることで、新たな表現が生まれる。
ジェイ-Z『4:44』や ナズと ヒット・ボーイによる一連の作品が高く評価される理由も、そこにあるのではないだろうか。

それらは人生の記録でありながら、高度に編集された作品でもある。経験は言葉やフロウ、ビート、アルバム全体の構成を通じて組み立てられる。編集によって経験が失われるのではなく、他者に届く形を獲得することもある。
ヒップホップの歴史とは、新しさの歴史というより、声とビートの関係をめぐる重心移動の歴史なのかもしれない。
そして、その揺れ動きのなかで、ドキュメントとデザイン、経験と編集、生とスタイルは、現在もなお往復し続けているのである。


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