フランク・ステラ(1936–2024、アメリカ)
純粋性を突き詰め、絵画を空間へ押し出す
フランク・ステラは、抽象表現主義のあとに現れた画家である。
しかし、彼はその豊かな画面を受け継ぎながら、そこから徹底的に余計なものを削っていった。
1950年代末、黒いストライプを規則正しく並べた絵画を制作する。

そこには、何かを描こうとする身振りがほとんどない。
感情を表現する筆触も、深い奥行きも、物語もない。
ただ、線がある。
その線が画面を分割し、画面の形そのものを決めていく。
ステラにとって重要だったのは、「何を表現するか」ではなく、絵画がどのように存在しているかだった。

絵画は窓ではない。
何か別の世界を覗くためのものでもない。
一枚の物体として、壁の前に存在する。
ステラは、こうした絵画の純粋性を徹底して追求した。
ところが、その純粋性を突き詰めるほど、絵画は奇妙な方向へ進んでいく。

長方形の画面から外れ、線や模様に合わせて支持体そのものが変形する。
シェイプド・キャンバスによって、絵画とその土台は分けられなくなっていく。




さらに画面は壁からせり出し、レリーフのようになり、やがて立体的な構造へと展開していく。
ここで起きているのは、単純な「絵画の拡張」ではない。
純粋性、形式主義、平面性、そして奥行きをイリュージョンとして成立させるという近代絵画のルールそのものが、内側から揺さぶられていく。


絵画を純粋にしようとしたはずなのに、絵画と彫刻、平面と空間、形式と装飾の境界まで揺さぶってしまう。
ステラは、絵画を壊そうとしたのではない。
むしろ、絵画とは何かを真面目に考え、そのルールを信じて突き詰めすぎた。

しかし同時に、そこで止まらなかった。
画面の形を変える。
支持体を変える。
絵具のある場所を変える。
そして、ついには画面そのものを壁から押し出す。

つまりステラは、絵画のルールに従ったまま、そのルールがどこまで使えるのかを試していった。
その結果、絵画を支えていたルールのほうが、絵画を別の場所へ押し出していった。
ここにステラの面白さがある。
彼は最初からフォーマリズムを疑っていたわけではない。
むしろ、絵画の形式的な可能性を信じたからこそ、その先まで進んだ。

しかし、形式を極限まで追い込むと、そこには形式だけでは収まらないものが現れてくる。
空間。
物質。
建築。
装飾。
彫刻。
純粋性を追求した結果、絵画は逆に雑種的なものになっていく。

ここが、ラウシェンバーグとの重要な接点になる。
ラウシェンバーグは、写真や新聞、日用品や既製品といった絵画の外側から異物を持ち込んだ。
ステラは、絵画の内部にあった形式や理論を突き詰め、その内部から絵画の外へ出ていった。
方向は正反対だ。
しかし二人とも、結果として「純粋な絵画」という一つの血統を崩していく。

ステラが壊したのは、絵画と空間の境界だった。
ラウシェンバーグが壊したのは、絵画と現実の境界だった。
そして、この二つが重なるところから、絵画はさまざまなものを受け入れられるようになっていく。

カツカレーで言えば、ステラは最初から具材を全部混ぜたわけではない。
むしろ、絵画という生地に、形式主義、ミニマル、幾何学、支持体、平面性といったものを徹底的に練り込んだ。

それを平らに伸ばし、さらに焼いていく。
すると、生地は膨らみ、形を変え、表面が盛り上がり、最初のレシピにはなかった味が出てくる。
彼は、絵画を平らな生地として徹底的に伸ばし、その中に絵画の理論と形式をすべて練り込んだ。
焼き上がった生地は、いつの間にか平面ではなくなっている。
そこには、純粋性だけでは説明できない、空間と物質のうまみが現れていたのだ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝56 ~フランク・ステラ 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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