ゴーストフェイス・キラー(Ghostface Killah)の2024年作『セット・ザ・トーン(Set the Tone)』を聴いていて、あらためて不思議に思った。
この人には、まだ引き出しがある。

すでに『アイロンマン(Ironman)』がある。
『シュプリーム・クライアンテル(Supreme Clientele)』がある。
『フィッシュスケール(Fishscale)』もある。
どれか一枚でも、そのラッパーの代表作になっておかしくない。
ところが、それらを作ってから何十年も経った今も、ゴーストフェイスは新しい作品を出し、そこに別の自分を持ち込んでくる。
もちろん、全編が同じ強度で傑作というわけではない。それでも、ハードなストリート・ラップからソウルやR&Bへ開いていく曲までを聴いていると、一つのサウンドだけでは捉えきれないラッパーであることがわかる。
彼には、いろいろな引き出しがある。

しかも、それらを開けても、ゴーストフェイスであることが消えない。
ここが面白い。
普通、スタイルを広げれば、その人らしさは薄くなる。しかしゴーストフェイスの場合、異なるサウンドに挑戦しても、声やフロウ、言葉の運び方に、その人らしさが残る。
彼の作家性は、一つの完成されたスタイルにあるのではない。
違うものをやっても、最後にはゴーストフェイスになってしまう。その中心にある。
ただし、彼の凄さは、どんなサウンドでも自分らしく聴かせられることだけではない。
作品ごとに、異なる方向の魅力を成立させていることにもある。
『アイロンマン』には、、RZAの暗く埃っぽいサウンドと、ゴーストフェイスの声と言葉が結びついた強烈な世界がある。そこには70年代ソウルを思わせる、少し古びた温かさや哀愁があり、それが荒々しいビートやストリートの緊張感と独特のバランスをつくり出している。

『シュプリーム・クライアンテル』では、言葉が飛び、イメージが飛び、比喩が飛ぶ。ソウルの断片を切り刻み、ビートと絶妙に組み合わせることで生まれる高揚感が、言葉の連想と勢いをさらに加速させている。短く刻まれたサンプルが反復のなかで独特のうねりを生み、ゴーストフェイスの声がその隙間を縫うように動くことで、曲そのものが次々と場面を切り替えていくような感覚がある。

『フィッシュスケール』では、そうした持ち味を保ちながら、サウンドの幅を広げていく面白さがある。ソウルフルな質感を残しつつ、より多彩な音の組み合わせを取り込み、ゴーストフェイスの奔放なラップを新たな音楽的な環境へと押し広げている。

これらが代表作として語られてきたことには、十分な理由がある。
しかし、ゴーストフェイスの作品を聴いていると、この三枚だけで彼の魅力を捉えきれるのだろうか、という気持ちにもなる。
たとえば『アポロ・キッズ(Apollo Kids)』のような作品だ。

言葉の飛躍やサンプリングの独創性とは少し違う角度から、リズムの重さや、声とビートがつくるグルーヴに耳を向ける。
すると、別の強さが見えてくる。
『アポロ・キッズ』では、低くうねるビートに加え、ギターなどの上物がつくる音色も印象に残る。それらは、ヒップホップのビートに彩りを添えるというより、別の種類のエネルギーをぶつけてくるように聞こえる。グランジを思わせる荒々しさもあり、反復するビートのグルーヴとは異なる方向から、曲を前へと押し出していく。
音の重心が低く定まりながら、その上では異質な音色が緊張感を生み出す。声とビートの絡み合いだけでなく、異なる音楽的な感触が同じ場所に共存していることも、この作品の強度になっている。
『シュプリーム・クライアンテル』の凄さを語るときと、『アポロ・キッズ』のよさを語るときでは、作品を評価する基準そのものが少し違う。
もちろん、両作品の魅力はそれぞれの要素だけに還元できない。
それでも、どこに注目するかによって、作品の見え方は変わる。

ゴーストフェイスの場合、異なる角度から聴いても、それぞれに十分な強度を持った作品が見つかる。
代表作の評価はそのまま認めながら、別の評価軸を持ち込むことで、ほかの作品にも違った魅力が立ち上がってくる。
ここに、彼の作品群の豊かさがある。
では、なぜ彼は、これほど異なる方向の作品を作り続けられるのだろうか。
その理由を考えるとき、作品数の多さを見落とすことはできない。
ゴーストフェイスは長いキャリアの中で、何度もアルバムを作り、さまざまなプロデューサーと組み、異なるサウンドの中で自分のラップを試してきた。
その経験は、技術だけでなく、審美眼も磨いてきたのではないだろうか。

どんなビートなら自分の声が生きるのか。どのようなリズムならフロウに別の表情が生まれるのか。自分とは異なるサウンドを、どう取り込めば面白い作品になるのか。
そうした判断を、彼は何度も実際の作品を通して試してきた。
もちろん、作品を作り続ければ、必ず審美眼が磨かれるわけではない。経験が惰性になり、過去の成功を繰り返すだけになることもある。
しかしゴーストフェイスの場合、経験が新しい組み合わせを試すための力になっているように感じる。
ここでいう審美眼とは、よいビートを見分ける耳だけではない。
ある音が単独で魅力的であることと、その音が自分の作品として機能することは違う。
ビートを選び、声を置き、言葉とリズムのバランスをつくる。さらに、それぞれの曲をアルバムの中に配置する。
作品を成立させるためには、個々の要素のよさだけでなく、それらを組み合わせたときに何が起こるのかを判断しなければならない。

ゴーストフェイスは、ラップの技術だけでなく、こうした組み合わせを判断する感覚も、長いキャリアの中で磨いてきたのだと思う。
彼のフロウは、単純にリズムに正確に乗ることだけを目指しているわけではない。
言葉を詰め込んだかと思えば、少し間を空ける。イメージを連続させながら、唐突に別の方向へ飛ぶ。声の勢いや抑揚を変え、同じビートの中に違う時間の流れをつくる。
こうした動きによって、ラップはビートに従うだけでなく、ビートの聴こえ方そのものを変えていく。
情報量の多いビートでは、言葉の密度が音の細部を引き出す。ソウルフルなサウンドでは、声のざらつきが音の甘さに陰影を与える。リズムの重いビートでは、声の動きが、その重量感を際立たせる。
声の質感、言葉の密度、イメージの飛躍。それぞれの要素が、ビートとの関係の中で働いている。
ゴーストフェイスは、ラップをビートの上に載せるだけではない。ラップによって、ビートの聴こえ方まで変えてしまう。
そして、その技術を一つのサウンドに固定せず、異なる条件の中で使い直している。

さらに面白いのは、彼が異なるプロデューサーの個性を受け入れながら、自分の作品を成立させていることだ。
RZAのビートには、RZAの暗さや不穏さがある。ほかのプロデューサーには、それぞれのサンプリングやリズムの感覚がある。
ゴーストフェイスは、そうした違いをすべて自分の色に塗りつぶすわけではない。相手の音の特徴を残しながら、自分の声やフロウを配置していく。
その結果、プロデューサーとラッパーの個性が、それぞれの特徴を保ったまま作品として成立する。
自分だけでは生み出せない要素を、他者の音から取り込むことができる。
そのためには、自分の強みを知るだけでなく、自分の表現が変化する余地も残しておかなければならない。

ゴーストフェイスの作家性は、完成された個性を守ることによって成立しているのではない。他者の音との関係を組み立てるたびに、何度も作り直されている。
そう考えると、引き出しは最初からすべて揃っていたわけではない。
作品を作り、世に出し、次の作品に取り組む。その繰り返しの中で、自分に合うものがわかり、同時に、これまでにない組み合わせの可能性も見えてくる。
経験を積むことで、自分の得意なものがわかる。しかし、自分の表現が成立する場所を、最初から決めつける必要もなくなる。
経験が保守性に変わるのではなく、挑戦できる範囲を広げていく。

ゴーストフェイスのキャリアには、そうした循環があるように思える。
だから『セット・ザ・トーン』も、過去の名盤を超えたかどうかだけで聴く必要はない。
若い頃に使っていた引き出しを開ける。別の引き出しも開ける。昔なら使わなかった音にも触れてみる。
作品ごとに異なる魅力を成立させようとする姿勢は、長いキャリアを通じて変わっていない。
『アイロンマン』も、『シュプリーム・クライアンテル』も、『フィッシュスケール』も、終点ではなかった。
それらは、次のゴーストフェイスを作るための経験であり、材料になった。
そして『アポロ・キッズ』のような作品に別の角度から耳を傾けると、代表作という枠組みだけでは捉えきれない、彼の表現の幅が見えてくる。
一つの基準で最高の作品を作るだけではない。

異なる基準のもとでも、それぞれに聴き応えのある作品を成立させる。
ゴーストフェイスの引き出しが多いというのは、単にできることが多いという意味ではない。
どの引き出しを開け、何を組み合わせ、どうすれば作品として成立するのか。その判断基準そのものが、長いキャリアの中で磨かれてきたということだ。
決定版を持っている人が、決定版に縛られず、まだ作れる。
そして、その新しい作品にも、これまでとは違う角度から聴く価値がある。
ゴーストフェイス・キラーの面白さは、そこにある。

アルバート・オーレン ─ 作家性を持ったまま移動する
アルバート・オーレンの絵を見ると、最初に戸惑う。
抽象画のように見えたかと思えば、突然、木や人物のようなイメージが現れる。激しい筆触の上に、コンピューターで作ったような線や図形が重なり、広告の断片まで入り込んでくる。

きれいにまとめることもできそうなのに、あえて画面を崩しているように見える。
しかし、オーレンにとって重要なのは、ひとつのスタイルを完成させることではなかった。

1980年代には具象と抽象を混ぜ、コラージュにも取り組む。1989年頃からは木を描き始め、1990年代にはコンピューターを使った「コンピューター・ペインティングス(Computer Paintings)」を制作する。さらにグレーの絵画、広告ポスターを使った作品、指で直接描く絵画へと移っていく。
制作の方法は大きく変わる。

それでも、そこには不思議な連続性がある。
特に面白いのが、コンピューター・ペインティングだ。
1990年にロサンゼルスでコンピューターを購入し、低解像度の粗い線やパターンを使った絵画を始める。

コンピューターに絵を描かせるというより、機械が生み出す一定のルールや制約を、新しい出発点として使っている。
そして、そのまま機械に任せるわけではない。
プリントやシルクスクリーンの上から絵具を重ね、均質なパターンに再び手を入れていく。機械によって生まれたものを、人間の手によってもう一度崩す。

ここには、オーレンの作家性がよく表れている。
彼は、自分らしい筆触を守ることで作家性を作るのではない。
むしろ、自分のやり方を一度手放し、別の方法へ移っていく。

それでも、なぜかオーレンの絵になる。
これは、何を描いても同じという意味ではない。
方法が変わっても、その方法をどう使い、何を残し、どこで崩すのかという判断が働いているのだ。
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コンピューターを使っても、単純なデジタル絵画にはならない。機械のパターンも、広告も、筆触も、それぞれの性質を残したまま、絵画の材料になっていく。
ここでは、技術そのものよりも、技術をどのように絵画へ持ち込むかが重要になる。
作家性とは、同じ形を繰り返すことではない。
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異なる方法を試しながら、それぞれの方法が持つ可能性を引き出し、作品として成立させること。
オーレンの絵には、その自由がある。
だから画面は、ときに雑で、ときに過剰で、ときに何をしているのかわからない。しかし、その分からなさも、画面をひとつの様式に固定しないための力になっているように見える。
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そして重要なのは、オーレンが過去の自分を捨てているわけではないことだ。
以前の方法を消去するのではなく、次の方法へ持っていく。
抽象の経験を具象へ移し、絵画の経験をコンピューターへ移し、デジタルの経験を再び手の仕事へ戻す。
そのたびに、過去の経験は単に保存されるのではなく、新しい方法を使うための材料へと変わっていく。

一度コンピューターを経験した後では、手で描くことの意味も変わる。機械による均質なパターンを知った後では、筆触の不均一さも違ったものとして見えてくる。
方法を移動することは、表現の道具を取り替えるだけではない。
それまでの経験を、新しい角度から捉え直すことでもある。

だからオーレンの作家性は、ひとつの型ではなく、移動し続けるための中心にある。
作家は、自分らしい絵を繰り返すことで自分になるのではない。
自分の判断基準を持ちながら、どこまで別の場所へ行けるか。
そして、移動した先で、これまでとは違う自分の作品を成立させられるか。
オーレンの絵画は、その問いを何度も試している。

ウータン・クラン『Black Samson, The Bastard Swordsman』─ 神話からライブへ戻る音 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ
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