現実の奥行きをつくる
ここまで見てきた五人を並べてみると、ウィーン幻想派という言葉から想像する「幻想的な絵画」とは、少し違ったものが見えてくる。
ルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックス、ヴォルフガング・フッター、アリク・ブラウアー、アントン・レームデン。
彼らは、神話、宗教、身体、動物、植物、風景、夢といった、一見すると古い絵画に属するようなものを描いた。しかも、細密な描写や遠近法、古典的な絵画技法を手放さなかった。
しかし、彼らの絵を「昔の絵画への回帰」と考えると、どこかおかしい。
ハウズナーでは、奇妙なことが起こる。

身体を正確に描こうとするほど、その身体のまわりに線や矢印、測定のような記号が入り込み、遠近法によって安定していたはずの空間が揺らぎ始める。古典的な描写が、古典的な世界を再現するためではなく、見慣れた世界を不安定にするために使われている。
フックスの画面では、そこからさらに別の方向へ進む。

神話や怪物は、過去からそのままやってきたものではない。細密な線描によってつくられた身体は、古い物語を現在の身体へと変えている。
フッターになると、物体や目そのものが空間から離れて浮かび始める。

絵の中には明るく乾いた色彩が広がっているのに、そこにはどこか終末的な気配がある。身体から離れた目は、単なるシュルレアリスム的な奇想というより、見ることそのものが独立してしまったようにも見える。
ブラウアーは、さらに別の方向へ進む。

彼の画面では植物が地面から生え、動物や人物や建物までが増殖する。異なる土地の記憶や神話が、発光する色彩の中で変形し、現実そのものが少しずつ幻視へ変わっていく。
そしてレームデンでは、世界は地層になる。

地面、岩、建物、人物、火が、何層もの時間の中に置かれている。人間は風景の上に立っているのではなく、風景そのものから切り出されたように見える。薄い絵具を重ねながら、物質の厚さではなく、時間の厚さをつくっている。
こうして並べてみると、五人が同じものを描いていたわけではないことがわかる。
ハウズナーは身体と空間。
フックスは神話と身体。
フッターは視線と浮遊。
ブラウアーは記憶と増殖。
レームデンは地面と時間。
それぞれが、現実の別の部分を少しずつずらしている。

だから「幻想」という言葉だけでは足りない。
彼らは現実から逃げているのではなく、現実を一つの見え方に固定しない。
人物を神話に変える。
身体を空間に変える。
目を物体から切り離す。
植物から世界を増殖させる。
地面を時間の層に変える。
そこでは、描かれたものが別のものへ変わりながら、それでも元の姿を完全には失わない。
この「完全には一つにしない」感じが、ウィーン幻想派の面白さなのだと思う。

古典と現代。
現実と幻想。
身体と風景。
記憶と現在。
どちらか一方に決めてしまうのではなく、二つの間に揺れる場所をつくる。
だから彼らの絵は、細密であるにもかかわらず、世界を確定させない。
むしろ、細かく描けば描くほど、別の読み方が現れてくる。

これは「古い絵画を守った」という話ではない。
古い技法を使いながら、その技法でしかつくれない新しい現実を発見したということだ。
ウィーン幻想派の五人は、それぞれ違う入口から、現実の奥行きをつくった。
フックスの神話、ハウズナーの空間、フッターの目、ブラウアーの植物、レームデンの地層。

それらは一つの世界観に統合される必要はない。
むしろ、互いに少しずつずれたまま並んでいるからこそ面白い。
幻想とは、現実の反対側にあるものではない。
現実を一枚ではなく、何層にもして見るための方法なのだ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝35 ~ウィーン幻想派:ルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックス 他 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

コメント