混ぜすぎた美術史 123 ~ホルスト・ヤンセン

アート

ホルスト・ヤンセン(1929–1995、ドイツ)

紙一枚の中に沈んでいく世界

ホルスト・ヤンセンの絵を見ていると、暗い。

しかし、その暗さはゴヤやボスのような「ヨーロッパの闇」とは少し違っている。

そこには悪魔や死や戦争といった、共同体が共有してきた大きな闇があるわけではない。

もっと狭い。

もっと個人的で、逃げ場がない。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「自画像(憂鬱)」

一枚の紙の上に、人物の顔や身体、自画像、女性、植物、風景が現れる。そして、その周囲を細かな線が埋めていく。線は輪郭を決めるためだけではなく、描かれたものの内側から増殖してくるように見える。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「ナイト・ウォッチ」

ヤンセンは1940年代からペンとインクによる素描を始め、1950年代には木版やリトグラフ、銅版画へと広げていった。1959年頃には「躁的な走り描き」と呼ばれる時期があり、1962年以降には細かな鉛筆のハッチングによる独自の描線を確立する。解剖学や女性の身体を描いた「肉のドローイング」は、この時期の代表的な仕事になった。

この線は、世界を説明するための線ではない。

むしろ、描き続けることで世界が少しずつ内側へ沈んでいく。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「自画像」

顔を描く。

もう一度描く。

身体を細かく見る。

皮膚の皺や傷、肉の厚みまで描く。

すると、人物は単なる肖像ではなくなっていく。

自画像も同じだ。

ヤンセンは生涯にわたって自画像を繰り返し描き、顔を極端に近づけたり、歪ませたりした。そこでは自分の顔を「自分であることの証明」として描くというより、顔というものをどこまで見続けられるかを試しているように見える。

近づきすぎると、顔は顔でなくなる。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「頭部」

皮膚、皺、目、鼻、毛、影。

身体は細かな情報へ分解され、その情報がまた線の塊になっていく。

ここには、近代以降の「個人」の奇妙な姿がある。

共同体がすべてを意味づけてくれるわけではない。

神話や宗教が世界全体を説明してくれるわけでもない。

自分の身体、自分の欲望、自分の記憶、自分の孤独を、自分自身で抱えなければならない。

ヤンセンの暗さは、そこから生まれてくるように見える。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「花瓶の花」

彼の生涯は、幼少期から別離や喪失に刻まれていた。母や祖父母を早くに亡くし、戦後のハンブルクへ移った。その後も人間関係の危機やアルコールの問題などを抱えた。ただし、作品を単純に伝記の反映として読むことはできない。重要なのは、そうした個人的な経験が、心理描写としてではなく、描線そのものへ変換されていることだ。

「私は孤独だ」と描くのではない。

孤独そのものが、線になる。

この違いは大きい。

だからヤンセンの作品には、感情を説明する言葉がほとんど必要ない。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「魚の頭」

細かな線が増えていく。

身体が歪む。

顔が近づく。

紙の余白が狭くなる。

それだけで、世界が個人の内側へ入り込み、そこで濃縮されていく感じが生まれる。

一方で、ヤンセンは完全に内側だけを見ていたわけでもない。

1970年代には自然を描くようになり、1971年には北斎との出会いから《北斎の散歩(Hokusai’s Spaziergang)》を制作する。さらにクロード・ロランなどの古典作品を模写しながら、それを単純に複製するのではなく、自分の線へと作り替えていった。ヤンセンにとって「コピー」は過去を再現することではなく、他者の手に入り込み、そこから自分自身をもう一度発見する行為でもあった。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「北斎の散歩」
出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「北斎の散歩」

ここが面白い。

これほど私的な作家なのに、彼は古い絵画や北斎のような外部の世界を何度も取り込んでいる。

つまり、閉じこもっているだけではない。

外の世界を自分の中へ取り込み、それを自分の線として吐き出している。

1970年代後半には恋愛をきっかけに多数のエロティックな水彩を制作し、晩年には事故によって視力を失う危機を経験した後、100点に及ぶ《ボベタニエン》の風景水彩へ向かう。そこでも、外の風景はそのまま再現されるのではなく、ヤンセン自身の時間を通過した風景になっている。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「ボベタニエン」
出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「ボベタニエン」

だからヤンセンの「幻想」は、別世界をつくる幻想ではない。

現実が、個人の中を通過することで少しずつ変形してしまう。

顔は怪物のようになる。

身体は肉の塊になる。

風景は記憶になる。

古い巨匠の線は、自分の線になる。

北斎はヤンセンの紙の上で別のヤンセンになる。

この意味でヤンセンは、ウィーン幻想派とは別の場所から、同じ問題に触れている。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「ガラス瓶の花」

ハウズナーが空間を揺らし、フックスが神話を身体へ戻し、フッターが視線を浮遊させ、ブラウアーが世界を増殖させ、レームデンが世界を地層にしたとすれば、ヤンセンはもっと小さな場所へ向かう。

世界そのものではなく、世界を抱え込んだ個人へ。

そのとき、紙一枚が一つの世界になる。

大きな歴史や共同体の物語からこぼれ落ちたものが、一本一本の線として残っていく。

それは、世界を描いた絵ではない。

世界が一人の人間を通過した、その痕跡なのだ。

彼は皿に、古い絵画と自分自身、身体と記憶、外の世界と個人の闇を、無数の線というルーで煮詰めたのだ。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「自画像」

カツカレーカルチャリズム画家列伝39 ~ホルスト・ヤンセン 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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