混ぜすぎた美術史 112 ~キメラ的カツカレーの発生 ─ 純化と混交、ステラとラウシェンバーグ

アート

ここまで、美術はさまざまな方向へ進んできた。

抽象表現主義は、絵画に身体、時間、偶然、精神を持ち込んだ。

ミニマルは、そこから余分なものを削り、作品を構造へと近づけた。

出典:Artpedia/ロバート・ライマン「無題」

コンセプチュアル・アートは、作品を物質からアイデアへ移した。

フルクサスは、芸術と日常の境界そのものを揺さぶった。

出典:Artpedia/ジョージ・ブレヒト「水とヤム、初版」

ボイスやクリストは、作品を社会や環境へ広げた。

出典:Artpedia/クリスト「包まれたライヒスターク」ベルリン

カラーフィールドは、再び絵画の画面に戻り、色そのものを巨大な経験にした。

それぞれは、何かを突き詰めることで、新しい可能性を開いてきた。

しかし、ここで美術のつくり方そのものが変わり始める。

違うものを、同じ場所に置く。

その転換を考えるうえで、フランク・ステラとロバート・ラウシェンバーグは、まるでコインの裏表のように見えてくる。

ステラは、絵画を徹底的に純化した。

線、形、色、支持体。

出典:Artpedia/フランク・ステラ「理性と惨めさの結婚 II」

画面に何が描かれているかではなく、絵画がどのように成立しているのかを突き詰める。抽象表現主義が獲得した「絵画そのもの」という問題を、さらに純粋な形式へと押し進めた。

しかし、その純粋性を突き詰めることは、絵画を平面の中に閉じ込めることにはならなかった。

シェイプド・キャンバスによって画面の形そのものを変え、支持体と絵画の境界を揺さぶる。さらにレリーフや立体へと展開し、絵画は壁からせり出し、空間の中へ入り込んでいく。

出典:Artpedia/フランク・ステラ「ダマスカス・ゲート」

そこで食い破られたのは、絵画そのものではない。

純粋性、形式主義、平面性、そして絵画の奥行きをイリュージョンとして成立させるという近代絵画のルールだった。

絵画を純化しようとしたはずが、その論理を徹底することで、絵画と彫刻、平面と空間、形式と装飾の境界まで揺さぶってしまった。

つまりステラは、純粋な絵画をつくることで、結果的に絵画を別のものへ変えていった。

一方、ラウシェンバーグは、もっと早い段階から絵画の純粋性そのものにリアリティを感じていなかった。

新聞、写真、印刷物、日用品、既製品、偶然。

絵画の外にあるものを、次々と画面へ持ち込んでいく。

絵画を純化するのではなく、世界のほうを絵画に混ぜてしまう。

出典:Artpedia/ロバート・ラウシェンバーグ「バッファローⅡ」

ラウシェンバーグにとって、何が「正しい絵画」なのかを決めることよりも、目の前にある世界とどう関係するかのほうが重要だった。

だから、何か一つの新しい形式を提示するというより、写真も、新聞も、物も、絵具も、偶然も、とりあえず同じ画面に置いてみる。

ステラが絵画の内部を突き詰めたのだとすれば、ラウシェンバーグは絵画の外側から入り込んできた。

出典:Artpedia/ロバート・ラウシェンバーグ「ベッド」

それでも二人は、奇妙なところで同じ場所へ向かっている。

ステラは、純化によって境界を越えた。

ラウシェンバーグは、混交によって境界を越えた。

一方は形式から空間へ。

もう一方は絵画から現実へ。

その結果、二人とも「純粋な絵画」という一つの血統から作品を解放してしまった。

出典:Artpedia/ロバート・ラウシェンバーグ「モノグラム」

ここで、美術に新しい文法が生まれる。

一つの原理を純粋に追求するだけではない。

異なるものを組み合わせる。

絵画と写真。

絵画と文字。

絵画と既製品。

芸術と日常。

高級文化と大衆文化。

平面と立体。

まるで、別々の生物の器官を組み合わせ、新しい生物をつくるように。

キメラ的な美術が発生する。

出典:Artpedia/キメラ(イメージ)

ここで重要なのは、「何でも混ぜる」ことではない。

ステラが画面の内部から持ち出したのは、絵画を支えてきた形式や構造だった。

ラウシェンバーグが持ち込んだのは、絵画の外にある具体物やイメージだった。

つまり、

ステラは、絵画の内部にあったものを組み替えた。

出典:Artpedia/フランク・ステラ「ハランⅡ」

ラウシェンバーグは、絵画の外部にあったものを持ち込んだ。

方法は違っても、二人とも絵画を一枚の平面として完結させるのではなく、そこに何かを置き、関係させる方向へ進んでいった。

出典:Artpedia/ロバート・ラウシェンバーグ「事実Ⅱ」

レオ・スタインバーグがラウシェンバーグを論じる際に「フラットベッド・ピクチャー・プレーン」と呼んだのは、こうした転換を捉えるためだった。

絵画は、世界を向こう側に見るための窓ではなくなっていく。

そこには、ものや情報や形式が載せられる。

その先には、ジョーンズの旗や数字、リキテンスタインの漫画、ウォーホルの商品やスターが続いていく。

出典:Artpedia/ジャスパー・ジョーンズ「旗」
出典:Artpedia/ロイ・リキテンシュタイン「ルック・ミッキー」
出典:Artpedia/アンディ・ウォーホル「マリリン・ディプティック」

「これは絵画なのか」という問いだけではなく、

「これは何と何を、同じ場所に置いているのか」

という問いが重要になっていく。

ここから先、美術はますます混ざっていく。

しかし、何でも混ぜればよいわけではない。

ポップ・アート、そして現代の表現を見ていくと、重要になるのは「異質なものを混ぜること」そのものではなく、何と何を、どのように組み合わせるかという編集の感覚になっていく。

カツカレーも、ただ何でも皿に載せればいいわけではない。

カツにはカツの厚みがあり、カレーにはカレーの辛さがあり、米にも米の個性がある。

出典:Artpedia/カツカレー:ガスト ブラックカレー「本気盛り」

その違いを消すのではなく、違いを残したまま、一つの味にする。

そして、組み合わせることで、それぞれの味がむしろ鮮明になる。

ここから美術は、「純粋なものをつくる」だけではなく、異なるものの関係をつくることへ向かっていく。

それは、単なる混合ではない。

異なるものを組み合わせることで、それぞれの輪郭まで浮かび上がらせること。

キメラ的カツカレーの発生である。

出典:Artpedia/カツカレー:煮込みカツカレーの店 「鬼が島」

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