ラリー・プーンズ(1937–2025、アメリカ)
色が、物質になってしまう
これ、いったい絵の具を何キロ使っているんだ?
ラリー・プーンズの後期の絵を見ると、まずそんなことを考えてしまう。
画面には絵の具が盛り上がり、垂れ、絡まり、固まり、ひび割れている。色はもう平らな面に置かれていない。厚みを持ち、重さを持ち、ところによっては画面からこちら側へ飛び出してくる。

絵というより、何かを大量に盛りつけたものに近い。
しかも、その盛り方がすごい。
「これも入れてしまえ。まだいける。じゃあ、もう一色。もっと厚く。そこにも流してしまえ」
そんな勢いすら感じる。
パフェにトッピングを次々と載せていって、最後にはアイスクリームも果物もソースもクリームも、何が何だかわからなくなっている。でも、その「盛りすぎ」そのものが妙にうれしい。

プーンズの後期絵画には、そんな爆盛りの感覚がある。
もちろん、最初からこうだったわけではない。
1960年代のプーンズは、円や楕円、ドットを規則的に配置する絵画で知られていた。数学的なシステムによって色と点を組み合わせ、画面から画家の手の痕跡をできるだけ消していく。点と点の間隔や密度によって、画面全体が揺れて見えるような、非常に精密な絵画だった。

ところが、1960年代後半から70年代にかけて、その秩序が大きく変わる。
プーンズは絵の具を注ぎ、流し、滴らせ、投げるようになる。
しかも、筆で描くのではない。重力や絵の具そのものの流れを利用する。絵の具をキャンバスに投げつければ、どこから始まり、どこで交差し、どこまで流れるかは完全には予測できない。画家が決めるのは、絵の具の量、色、投げる方向や勢いなどであり、その先では重力と乾燥が仕事を始める。
ここで面白いことが起こる。
初期のドットでは、色は「配置されるもの」だった。

しかし後期になると、色は「動くもの」になる。
そしてさらに進むと、色は「積もるもの」になる。
流れた絵の具が乾く。
その上にまた絵の具を置く。
厚くなる。
ひびが入る。
そのひびを別の色が覆う。
さらにその上に別の層ができる。
そうして画面は、色彩の集合から、まるで地層のような物質へ変わっていく。

「色の絵画」だったはずなのに、いつの間にか「色でできた物体」になっている。
この変化はかなり大胆だ。
カラーフィールドの絵画では、色はしばしば画面を広げるために使われた。ルイスは色を染み込ませ、オリツキーは色を薄く漂わせ、ノーランドは色を規則的に配置した。
プーンズは、そこから逆方向へ行った。
色を画面の奥へ消すのではなく、画面の上に積んだ。
色を軽くするのではなく、重くした。
色を純粋な視覚現象にするのではなく、絵の具という物質に戻した。

しかも、そこで終わらない。
1970年代後半には、絵の具だけでなく、フォーム、ゴム、ロープ、タイプライター用紙などまでキャンバスに取り付けている。絵画はますます厚くなり、重くなり、壁から前へせり出していく。批評家マイケル・フリードが「エレファント・スキン」と呼んだのも、この異様な厚みと表面のためだった。
ここまで来ると、もう「絵画空間」という言葉そのものが怪しくなってくる。

普通の絵では、画面の中に奥行きがある。
プーンズの絵では、奥行きより先に、物質がある。
絵の具が垂れる。
固まる。
ひび割れる。
別の色を押しのける。
重なった層が表面を持ち上げる。
つまり、画面の中で小さな物理現象が起きている。

画家がすべてをコントロールしているというより、途中から絵の具そのものが勝手に仕事を始めるのだ。
だから、プーンズの絵を見ると「どう描いたのか」だけでなく、「これはいったい何が起きた跡なのか」と考えてしまう。
しかも、それだけの物質を画面に載せる。
いったいどれだけの絵の具を用意したのだろう。
どれだけの時間をかけて乾かしたのだろう。
どれほど重くなったのだろう。

そう考え始めると、作品は急に「絵」から「出来事」に変わって見えてくる。
これは、初期のドットとは正反対のようでいて、実は同じ問題を引き継いでいる。
初期のプーンズは、点の間隔や色の組み合わせによって、画面全体を揺らした。
後期のプーンズは、絵の具そのものを動かした。
つまり、彼がずっとやっていたのは、画面を静止させないことだったのかもしれない。
最初は点が動いた。
次に絵の具が動いた。
最後には、絵の具の重さや乾燥や堆積までが動き始めた。

リズムが消えたのではない。
リズムが物質になったのである。
そしてプーンズは、その物質を遠慮なく盛った。
ルイスが色を染み込ませた。
ノーランドが色を並べた。
オリツキーが色を漂わせた。
そしてプーンズは、色を流し、投げ、積み、固めた。

純粋な色を追いかけていたはずの絵画に、重さと厚みと偶然と時間を、これでもかとトッピングしていく。
それはもう、きれいに盛り付けられたパフェではない。
「おりゃー!」と最後の一盛りまで載せてしまった、巨大なパフェだ。 そして面白いのは、その「盛りすぎ」が単なる装飾ではなく、絵画そのものを物理現象に変えてしまったことである。


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