しかし、ミニマル以後に取り出された栄養成分は、物質や空間だけではなかった。
もう一つ、重要なものがあった。
歴史である。
1960年代のアメリカ美術には、過去から距離を取り、新しい形式を生み出すことに強い価値が置かれていた。
抽象表現主義からポップへ。
ポップからミニマルへ。
ミニマルからコンセプチュアルへ。

もちろん、実際の美術史はこれほど単純な一本道ではない。
それでも戦後のモダニズムを語る強力な物語の一つは、過去の形式を乗り越え、新しい形式を獲得することで、美術が前へ進んでいくというものだった。
ところが、ヨーロッパでは、この物語をそのまま引き受ける必要はなかった。

とりわけイタリアには、ルネサンス以来の巨大な美術史がある。

古代。
宗教。
神話。
ルネサンス。

バロック。
未来派。
形而上絵画。

過去が、あまりにも豊かに残っている。
だからイタリアでは、過去を乗り越えることだけが新しさではなかった。
過去を呼び戻し、現在のなかに置き直すことでも、新しいものをつくることができた。
アルテ・ポーヴェラも、単なる「ミニマルのイタリア版」ではない。
土、石、木、布、鉄といった物質を作品に持ち込むことで、工業社会の洗練された製品から距離を取るだけではなく、自然、身体、土地、そして古い文明の記憶までを現在へ引き寄せることができた。
マリオ・メルツの《イグルー(Igloo)》は、その感覚をよく示している。

鉄や石、ガラスなどの現代的な素材を組み合わせながら、そこに現れるのは、古代的な住居を思わせる原初的な形だ。
現代の素材によって、遠い過去の記憶をつくり直す。
ここでは、素材そのものだけでなく、形が背負っている時間の厚みが作品を支えている。

そして、アルテ・ポーヴェラにとって重要だったのは、作品だけではなかった。
「アルテ・ポーヴェラ」という名前を与え、展覧会を組織し、批評を書き、複数の作家を一つの動きとして語る。
そうすることで、作品をつくるだけでなく、それらを結びつける新しい歴史の見取り図までがつくられていった。
つまり、ここでは作品の制作と同時に、作品を読むための物語も制作されていたのである。
これは、形式を更新することとは別の強さを持っている。
新しい形をつくるのではなく、形が置かれる歴史そのものを組み替える。

その傾向がさらに明確になるのが、1980年代のトランスアヴァンギャルディアである。
ここでは、前衛が掲げてきた「新しい形式」という使命から、一歩退く。

神話。
宗教。
古代。
夢。
身体。
感情。
象徴。
かつて前衛によって古いものとみなされたイメージが、もう一度、絵画のなかへ戻ってくる。
サンドロ・キアの《水泳選手(Il Nuotatore)》では、古代彫刻を思わせる身体が、1980年代の絵画のなかに現れる。

新しい形を発明するのではなく、過去のイメージをもう一度使う。
その「再利用する自由」そのものが、ここでは前衛になる。
エンツォ・クッキの作品でも、宗教的な象徴、神話的な動物、古代を思わせる記号が、現在の風景や身体のなかへ入り込んでくる。
過去は、保存されるだけのものではない。

現在のなかで、もう一度使うことができる。
ここで「前衛」という言葉の意味も変わってくる。
前へ進むことだけが前衛ではない。
過去へ戻ることもできる。
横へ移動することもできる。
異なる時代からイメージを拾い、現在と接続することもできる。

つまり、美術史は一つの時間軸ではなく、さまざまな時代が同時に存在する場所になっていく。
これは、後の現代美術にとって大きな転換だった。
美術の価値は、「どれだけ新しい形式をつくったか」だけでは決まらなくなった。
どんな歴史を呼び出せるか。
どんな物語をつくれるか。
どんな記憶と現在を接続できるか。
そして、過去のものをどのように組み替え、新しい意味を与えられるか。
美術は、過去を捨てることで新しくなるだけではない。
過去をもう一度使うことでも、新しくなれる。

アメリカのミニマルが、芸術から余分なものを削ぎ落とし、形式や物体を純化したとすれば、イタリアではそこから別の栄養素が取り出された。
歴史。
神話。
感情。
記憶。
物語。
美術は、単純になることで終わらなかった。
削られたあとに、何を戻すのか。
どの時代から、どのイメージを拾うのか。
それを現在のなかでどう組み替えるのか。

その選択によって、それぞれの土地の美術は再び違い始めたのである。
「更新」から「編集」へ。
美術史の中心が一つの方向へ進むのではなく、世界の各地が、それぞれの過去から必要なものを拾い直し、現在へと組み替え始めた。
美術は、未来だけを向いて進む必要がなくなった。
過去もまた、現在をつくるための素材になったのである。


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