ヒップホップには、一人で世界を切り開くラッパーがいる。
強烈な個性を前面に押し出し、どんなプロデューサーと組んでも、その作品を「自分の色」に染めてしまう。
しかし、タリブ・クエリ(Talib Kweli)は少し違う。

彼は優れたソロ作品を残してきたにもかかわらず、不思議なことに、誰かと向き合ったときの方が、言葉がいっそう自由になる。
相手に合わせるのではない。
相手の世界へ入り込むことで、自分自身の表現まで広がっていくのである。
その魅力がもっともよく表れているのが、マッドリヴ(Madlib)との『リバレイション2(Liberation2) 』だ。

マッドリヴのビートは、一見すると穏やかに流れている。しかし耳を澄ませると、リズムは驚くほど複雑に組み立てられ、サンプルは幾重にも重なりながら、それでも土の匂いを失わない。緻密に編集されているにもかかわらず、どこか自然に育った植物のような有機的な質感がある。
その空間の中で、タリブ・クエリはビートを支配しようとはしない。
複雑なリズムの間を歩き、呼吸し、言葉を置いていく。
だからラップはビートと競い合うのではなく、音楽そのものと対話しているように聴こえる。

タリブ・クエリの魅力は、その知性にあると言われることが多い。
しかし、それは難しい言葉を使うという意味ではない。
彼はストリートの暴力や成り上がりを自己神話として語るタイプではなく、本や歴史、ジャズ、コミュニティといった文化の中で思考するラッパーである。
社会への怒りや問題意識を持ちながらも、それを力や威圧ではなく、言葉と対話へ変えていく。
だから彼のラップには、どこか品格がある。
それは現実から距離を置いているということではない。
文化を通して現実を見つめる姿勢なのである。
振り返れば、タリブ・クエリの代表作には、常に優れた対話相手がいた。
ハイーテック(Hi-Tek)との『リフレクション・エターナル(Reflection Eternal)』では、ジャズやソウルを基調とした温かなサウンドが、彼の知的で誠実なリリックを支えた。

『ブラック・スター(Black Star)』では、ヤシイン・ベイ(Yasiin Bey)[※かつてはモス・デフ]というもう一人の優れたMCと向き合うことで、互いの言葉が反応し合い、一人では生まれないリズムや視点が生まれていく。

そして二十年以上の時を経て制作されたブラック・スターとしてのセカンド『ノー・フィア・オヴ・タイム(No Fear of Time)』では、マッドリヴが二人のための新しい空間を用意した。

『リバレイション2』と『ノー・フィア・オヴ・タイム』は、兄弟のような作品にも思える。
どちらもマッドリヴが手がけながら、その役割は少し違う。
『リベレイション2』ではタリブ・クエリという一人のMCを自由に歩かせ、『ノー・フィア・オヴ・タイム』ではタリブとヤシイン・ベイ、二人の対話そのものを成立させている。
マッドリヴはビートを作っているというより、言葉が出会う「場」を設計しているのである。

タリブ・クエリは、相手によって姿を変えるラッパーではない。
対話によって、自分自身の可能性を広げていくラッパーである。
だから彼のコラボレーションは、客演や話題づくりでは終わらない。
一つひとつの共作が、新しいタリブ・クエリを発見するための制作になっている。
前章で触れたLLクールJ『ザ・フォース』は、自らの歴史を未来へ編集し直すことで、新しい身体性を獲得した作品だった。
それに対してタリブ・クエリが示している成熟は、少し違う。

成熟とは、自分の歴史を抱え込むことではない。
それを他者へ開き、対話のなかで更新し続けることなのである。
だから『リバレイション2』は、完成された到達点ではない。
長いキャリアを歩んできた一人のMCが、なお他者との出会いによって自由になれることを証明した、静かで豊かな成熟の記録なのである。

パウル・クレー ─ 世界を取り込み、内なる宇宙へ変換する
パウル・クレーの絵画は、一見すると小さく、静かで、どこか子どもの絵のようにも見える。
単純化された線。
記号のような形。
淡い色彩。
意味を断定しない小さな世界。
しかし、その軽やかさの奥には、驚くほど広い文化的宇宙が広がっている。

クレーは、何か一つの様式を追求した画家ではなかった。
古代エジプトの記号、子どもの描画、音楽の構造、自然の成長、幾何学、東洋的な空間感覚、そして抽象絵画の理論。
彼はさまざまなものを吸収し、それらを自分の内部で組み替えていった。
重要なのは、クレーが引用の画家ではなかったということである。
外から得たものを、そのまま作品に持ち込むのではなく、一度自分の内側で消化し、別の秩序へ変換する。
その結果生まれるのは、世界の断片が混ざり合った画面ではなく、クレーというフィルターを通過した、独自の小宇宙である。

クレーにとって絵画とは、世界を再現することではなかった。
むしろ、見えないものがどのように形になるのかを探る行為だった。
彼は有名な言葉で、
「芸術は見えるものを再現するのではなく、見えるようにする」
と語った。
これは、単に抽象画を描くという意味ではない。

私たちが普段見過ごしている、時間の流れ、生命の成長、記憶の重なり、感情の揺れを、線や色の関係として立ち上げることである。
だからクレーの絵は、小さいながらも閉じた世界ではない。
むしろ、内部へ向かうことで無限に広がっていく宇宙なのである。
クレーの魅力は、その知性が決して冷たくならないところにもある。
彼はバウハウスで教鞭をとり、色彩や形態について理論的に研究した。
しかし、その理論は作品を縛る規則にはならなかった。
知性と遊び。
構造と偶然。
秩序と生命感。
相反するものを同時に成立させること。
そこにクレー独自の品のよさがある。
それは格式や洗練を誇示するものではない。
世界の複雑さを理解しながら、それを乱暴に単純化しない姿勢から生まれる品格である。

クレーの絵画は、文化との向き合い方についても示唆的である。
彼は多くのものを受け入れた。
しかし、受け入れることは模倣することではなかった。
異なる文化や時代の要素を、自分自身の内部で変換し、新しい形式として生み出した。
そこでは「混ぜること」は終着点ではない。
混ざったものが、どのような新しい秩序になるかが重要なのである。

その意味で、クレーの制作は、対話によって自分自身を広げていく表現者とも重なる。
異なる音楽、歴史、文化を取り込みながら、それを自分の言葉へ変換していくラッパー。
他者との出会いによって、むしろ自分自身の輪郭を明確にしていく表現者。
クレーが外部の世界を内なる宇宙へ変換したように、優れた表現者は、取り込んだものをそのまま並べるのではなく、自分だけの形式へ変えていく。
クレーの絵画が静かに示しているのは、世界を広げる方法は、外へ向かって拡散することだけではないということである。
深く受け取り、自分の内部で変換すること。
そのとき、ひとつの小さな画面の中に、無限の宇宙が生まれる。

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