ウータン・クラン(Wu-Tang Clan)を語るとき、多くの人はまず1993年のデビュー作『燃えよウータン(Enter the Wu-Tang (36 Chambers))』を思い浮かべる。
荒れた音質。
地下室のような空気。
カンフー映画の断片。
異様な声の存在感。
あの作品は、ヒップホップの歴史に突然現れた異形の集団の記録だった。

しかし、ウータンの魅力は決して1stアルバムだけにあるわけではない。
むしろ、長い時間を経た現在の彼らを聴くと、別の側面が見えてくる。
2025年発表の『ブラック・サムソン、ザ・バスタード・ソードマン(Black Samson, The Bastard Swordsman)』で感じるのは、初期ウータンの狂騒や神秘性ではない。
もっと地に足のついた感覚である。

音は意外なほど整理されている。
ビートは重いが、濁りすぎていない。
声の輪郭も明確で、それぞれのMCが一人の人間として前に出てくる。
そこには「ウータンという伝説」よりも、「長いキャリアを持ったラッパーたちが今ここで音を鳴らしている」というライブ感がある。
この変化には、プロデューサーであるマスマティックス(Mathematics)の存在が大きい。

RZAの初期ビートは、音そのものが巨大な世界観を作っていた。
歪んだサンプル。
不安定な質感。
暗い空間。
そこでは、ラッパーたちは霧の中から現れる登場人物のようだった。

一方、マスマティックスのビートは、ウータンの歴史を理解した上で、現在のメンバーをしっかり立たせる。
音は彼らを包むが、飲み込まない。
そのため、ゴーストフェイス・キラー(Ghostface Killah)のざらついた声、GZAの冷静な響き、メソッド・マン(Method Man)の抜けた存在感、レイクウォン(Raekwon)の粘り強い語りが、それぞれ自然に聞こえてくる。

そして面白いのは、客演の存在である。
ベニー・ザ・ブッチャー(Benny the Butcher)のような新しい世代のラッパーが参加していても、違和感がない。
本来なら、グリセルダ(Griselda)特有の冷たいストリート感が前面に出てもおかしくない。しかし、この作品では彼もウータンの世界の中に自然に存在している。

それは、ウータン自身がもはや「自分たちのスタイルを証明する必要がない」からだろう。
若い頃のウータンは、自分たちが何者なのかを世界に示す必要があった。
だから音もラップも過剰だった。
しかし現在の彼らは、自分たち自身がヒップホップ史の一部になっていることを理解している。
その結果、表現から余計な力みが消えている。
これは衰えではない。
成熟である。

以前のウータンは、未来へ向かって神話を作っていた。
現在のウータンは、その神話そのものを素材として扱っている。
この感覚は、近年のドクター・ドレー『ミッショナリー(Missionary)』やチャックD『エナミ―・ラジオ(Enemy Radio)』とも共通している。
彼らは過去の自分を再現しているのではない。
自分たちが積み重ねてきた時間を編集し、現在の表現へ変換している。
だから『ブラック・サムソン』は、懐古的な作品ではない。
1990年代のウータンを呼び戻す作品でもない。
むしろ、神話になった集団が、もう一度スタジオの中の人間に戻った瞬間を記録している。

伝説ではなく、ライブ。
キャラクターではなく、声。
過剰な演出ではなく、存在そのもの。
『ブラック・サムソン』の魅力は、ウータン・クランが歴史になった後でも、まだ現在進行形の音楽家であることを証明している点にある。

ゲオルク・バゼリッツ ─ 壊れた歴史を、身体で描き直す
ゲオルク・バゼリッツは、戦後ドイツ美術において最も異質な存在の一人である。
1960年代、美術の中心では抽象表現やコンセプチュアルな表現が大きな影響力を持っていた。絵画そのものの可能性を疑う時代に、バゼリッツはあえて具象へ戻った。
しかし、それは過去への回帰ではなかった。
彼が向き合ったのは、戦争によって崩壊したドイツの歴史と、その後に残された表現の可能性だった。
バゼリッツが描く人物は、英雄的な存在ではない。
身体は歪み、形は崩れ、画面には荒々しい筆跡が残る。

そこにあるのは、完成された美しい身体ではなく、傷つき、不安定で、それでも存在し続ける身体である。
彼は伝統的な人物画を復活させたのではない。
むしろ、戦後の時代において、かつての表現主義的な力をもう一度壊しながら使ったのである。
その象徴が、1969年頃から始まる「上下逆さまの絵画」である。
人物や風景を上下反転させることで、彼は絵画の内容から距離を取った。見る者は「何が描かれているか」よりも、絵具の動き、筆の痕跡、画面そのものの存在を意識する。

しかし、バゼリッツは抽象へ向かったわけではない。
形を残しながら、形を揺さぶる。
意味を残しながら、意味を不安定にする。
そこに彼独自の絵画の緊張感がある。
彼の作品には、荒々しい表面がある。
厚く置かれた絵具。
削られたような筆触。
崩れた輪郭。
その画面は、整えられた完成品というより、制作の格闘そのものが残された場所である。

この感覚は、ヒップホップにおけるウータン・クランの表現とも響き合う。
初期ウータンは、カンフー映画、ストリートの言葉、古いソウルやファンクの断片を組み合わせ、新しい神話を作り上げた。
それは洗練されたポップスではなかった。
荒さ。
歪み。
ノイズ。
そうした不完全さが、逆に強い存在感を生んでいた。

バゼリッツもまた、過去の様式をそのまま再現するのではなく、自分の身体を通してもう一度壊し、現在の表現へ変換した。
その意味で、彼の絵画は「伝統の復活」ではなく、「歴史との格闘」である。
成熟した表現者は、過去を捨てる必要がない。
むしろ、自分が積み重ねてきた歴史を素材として扱うことができる。

バゼリッツは、表現主義という過去を背負いながら、それを傷ついた現在の身体で描き直した。
それは、伝説になったウータン・クランが、かつての神話を再現するのではなく、現在の声と身体で鳴らし直していることとも重なる。
過去は保存するものではない。
現在の身体によって、もう一度生き直されるものなのだ。

仮面としての中国、都市の暗部としてのリズム ― バルトーク《中国の不思議な役人》とウータン・クラン『燃えよウータン』 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ


コメント