混ぜすぎた美術史 65 ~日本におけるシュルレアリスムの変換

アート

夢を見るのではなく、世界を増やす

ヨーロッパでシュルレアリスムが発見しようとしたのは、現実の内部に潜む無意識だった。

偶然。
夢。
欲望。
神話。

それらは理性によって抑圧されながらも、現実の裂け目から絶えず顔を覗かせる。シュルレアリストたちは、その異物を発見し、可視化しようとした。

出典:Artpedia/マックス・エルンスト「森」

しかし、その発想が日本へ渡ったとき、少し異なる変化が起きる。

もちろん日本にもシュルレアリスムは紹介された。コラージュや夢のイメージ、奇妙な組み合わせは多くの画家たちを刺激した。しかし彼らの関心は、必ずしも精神分析や無意識の探求へ向かったわけではない。

むしろ彼らは、不思議なイメージそのものに魅了された。

現実の奥に潜む何かを発見するというより、現実には存在しない光景を構想すること。異なるものを組み合わせ、新しい風景や生物や世界を生み出すこと。その方向へと想像力が展開していったのである。

古賀春江の画面には、海と都市、機械と人体、広告と夢が同時に現れる。そこにはフロイト的な無意識よりも、近代そのものが混ざり合う不思議な祝祭がある。

出典:Artpedia/古賀春江「海」

三岸好太郎の蝶は、現実の生物でありながら現実からわずかに離れた場所に存在している。それらは象徴であり、生命の気配であり、変身の予感でもある。

出典:Artpedia/三岸好太郎「雲の上を飛ぶ蝶」

そして瑛九において、イメージはさらに自律し始める。写真も絵画も現実の再現ではなくなり、像そのものが増殖しながら新しい関係を生み出していく。

出典:Artpedia/瑛九「田園B」

彼らに共通しているのは、夢の分析ではなくイメージの発明である。

それは西洋のシュルレアリスムが探した「現実の亀裂」とは少し異なる。

そこでは異世界は発見されるものではない。
構想されるものなのである。

出典:Artpedia/古賀春江「朧ろなる時間の直線」

この感覚は、後の日本文化にも繰り返し現れる。

怪獣。
妖怪。
マンガ。
アニメ。
キャラクター。

それらは現実から逃避する幻想ではない。現実と並行して存在する、もうひとつの世界の住人たちである。

出典:Artpedia/三岸好太郎「気ままな貝類」

日本におけるシュルレアリスムの受容とは、無意識の探求というより、そうした「もうひとつの世界」を生み出すための想像力の獲得だったのかもしれない。

ここで取り上げる三人の画家は、その最初期の実践者たちである。
彼らは夢を描いたというより、世界を増やしたのである。

出典:Artpedia/瑛九「旅人」

コメント

タイトルとURLをコピーしました