藤田嗣治(1886–1968、日本/フランス)
乳白色の越境
20世紀初頭、多くの日本人画家たちが西洋画を学ぶためヨーロッパへ向かった。
その中でも藤田嗣治は、単に西洋へ“追いつこう”とした画家ではない。むしろ彼は、西洋絵画の内部へ入り込みながら、その制度そのものを静かに変質させた。
当時の日本では、西洋画そのものがまだ輸入された制度であり、その価値基準の多くはヨーロッパ側に置かれていた。
油彩を学ぶことは、同時に「本場」への距離を意識することでもあったのである。
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しかも日本画壇には、官展を中心とした強い制度性が存在していた。
若い画家たちは、アカデミズムや師弟制度の内部で評価される必要があり、自由な実験は容易ではなかった。
藤田が1913年に向かったパリは、単なる憧れの都市ではない。
それは、日本の内部だけでは呼吸しきれなかった画家たちにとって、別の身体感覚を獲得する場所でもあった。
しかし興味深いのは、パリへ渡った藤田が、逆に「日本人性」を強く演出していく点である。
おかっぱ頭、丸眼鏡、細い口ひげ――彼は自らを半ば記号のように変形させていった。

それは単なる奇抜さではない。むしろ藤田は、西洋が期待する「東洋的芸術家」という像を利用しながら、自らの異物性そのものを武器へ変えていったのである。
当時のパリでは、すでに印象派以後の絵画革命が進行していた。
キュビスム、フォーヴィスム、エコール・ド・パリ――近代絵画は急速に多様化し、「正しく描く」ことそのものが解体されつつあった。

しかし、その激しい実験の只中で、藤田が選んだのは意外にも「線」であった。
彼の描く人物や猫は、極端に滑らかな乳白色の肌を持ちながら、輪郭線によって静かに閉じられている。
そこでは西洋油彩に典型的な厚塗りや量感表現は後退し、代わりに日本画や浮世絵を思わせる線描感覚が前景化している。
だが重要なのは、それが単純な「日本回帰」ではないという点である。

藤田は日本画をそのまま持ち込んだわけではない。
彼は油彩という西洋近代のメディアの内部で、日本的な平面性や線描感覚を再構成した。
つまり彼の絵画では、
- 西洋の油彩技法
- 日本画的線描
- パリ的モダニズム
- 東洋趣味的視線
- 都市的洗練
が、一枚の画面の中で奇妙な均衡を保っている。
特に有名な「乳白色の肌」は象徴的である。
その肌は、西洋的な肉体表現のように強い陰影で構築されていない。むしろ光を吸収し、平面的に静かに発光している。

そこでは身体は重量感を持つ物体というより、薄い膜のように存在している。
これは単なる様式上の特徴ではない。
藤田の絵画では、西洋近代が前提としていた「立体的身体」そのものが、日本的感覚によって別のものへ翻訳されているのである。
さらに興味深いのは、彼がパリにおいて「日本的」であることによって成功した点である。
つまり藤田は、西洋へ同化することで評価されたのではない。
むしろ異物であり続けることで、西洋近代美術の内部に新しい表面感覚を持ち込んだ。
ここでは文化の流れが反転している。

かつて浮世絵がヨーロッパ近代絵画へ影響を与えたように、今度は日本人画家自身が、西洋の中心地であるパリの内部を書き換え始めるのである。
しかしその一方で、藤田は日本へ戻っても、完全な居場所を得ることはできなかった。
彼は日本画家でも、西洋画家でもない。
あるいはそのどちらでもありながら、完全にはどこにも属していない。
その不安定さは、戦争画をめぐる問題によってさらに露出する。
国家へ協力した画家として批判され、戦後、藤田は再びフランスへ渡ることになる。

つまり彼の人生そのものが、
- 日本と西洋
- 模倣と独自性
- 同化と異物性
- 国家と個人
のあいだを往復し続ける運動だったのである。
これはカツカレーカルチャリズム的な構造そのものである。
藤田は西洋のレシピを忠実に再現しなかった。
油彩という器の中へ、日本的線描や平面感覚を流し込み、さらにパリの都市文化や異国趣味的視線までも混ぜ合わせた。

その結果生まれたのは、純粋な西洋画でも、日本画でもない。
境界が溶け合いながら、それでも完全には一体化しない、不安定で洗練された画面である。
藤田嗣治は、西洋の油彩、日本の線、パリの空気、異国への欲望、そして帰属できなかった自身の身体までも、乳白色のソースで静かに和え、一皿のモダニズムとして食卓へ差し出したのである。
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カツカレーカルチャリズム画家列伝15 ~藤田嗣治 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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