吉田博(1876–1950、日本)
光を翻訳する風景
近代日本美術において、西洋の技法を最も巧みに吸収した画家の一人として吉田博は語られる。
実際、彼の風景画には印象派以後の外光表現や空気遠近法の影響を見ることができる。光は移ろい、空気は湿度を帯び、山や水面は時間とともに微妙に色彩を変化させる。

しかし、吉田博の重要性は、単に「西洋画を上手く描いたこと」にはない。
むしろ彼の特異さは、西洋的な自然観と日本的な風景感覚を、完全には統合しないまま共存させた点にある。
西洋近代絵画において、風景とは「個人が見る対象」であった。自然は観察され、分析され、遠近法によって整理される。
一方、日本の風景表現では、空間の正確な再現よりも、季節感や気配、余白、そして身体が風景へ浸透していく感覚が重視されていた。
2-706x1024.jpg)
吉田博の風景画には、この二つの構造が奇妙なかたちで重なっている。
彼は西洋的写実を吸収しながらも、画面の奥へ突入するような強い遠近法をあまり用いない。
むしろ空気は静かに広がり、風景全体が水平的に呼吸している。そこでは自然は「攻略される対象」ではなく、依然として人間を包み込む環境として存在している。
この感覚は、木版画作品になるとさらに顕著になる。
江戸以来の日本的複製技術である木版へ、西洋的な光学表現や写生感覚を持ち込むことで、彼の画面には日本の版画文化、西洋的自然観、観光的風景イメージ、近代的移動経験が同時に混在することになった。

しかも彼が描いたのは日本だけではない。
インド、ヨーロッパ、アメリカ、エジプト――吉田博は世界各地を旅し、その風景を作品化した。

ここで重要なのは、彼が単なる異国趣味へ向かわなかったことである。
海外の風景もまた、日本の木版技法や空気感の中へ翻訳されていく。

つまり彼の風景画では、
「日本人が西洋を見る」
だけではなく、
「日本的な視覚構造が、世界そのものを描き換える」
という逆転が起きている。

これはカツカレーカルチャリズム的な構造そのものである。
西洋の油彩技法を受け取りながら、日本的な空間感覚へ組み替え、さらに木版という伝統技術へ戻し、そのうえで世界各地の風景を再翻訳する。
そこでは文化は一方向に流れていない。
日本は西洋を受容しながら、同時に西洋化された視覚そのものを変形し返しているのである。

吉田博の風景画に漂う静けさは、そのため単なる抒情ではない。
そこには複数の視覚体系が混ざり合い、それでも完全には統合されないまま共存している、不思議な均衡がある。
彼は世界の風景を旅しながら、それらを日本的な視覚の出汁にくぐらせ、新しい風景料理として食卓へ運んだのである。

カツカレーカルチャリズム画家列伝14 ~吉田博 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ


コメント