私たちはいま、イメージを見るというよりも、それらのあいだを通過している。
ヒト・シュタイエル(Hito Steyerl) は、現代における画像や映像のあり方を論じるアーティスト/理論家である。

彼女は、インターネット以降の環境において、イメージはもはや固定された「作品」ではなく、コピーや圧縮を繰り返しながらネットワーク上を流通する存在へと変化したと指摘した。画質やオリジナル性といった従来の価値は後退し、どれだけ広く拡散されるかという「流通」そのものが重要になる。

この視点は、現代の視覚環境を理解するうえで出発点となる。
しかし現在起きているのは、その次の段階である。
イメージは単に流通するだけではない。その流れは記録され、解析され、次のイメージの配置にフィードバックされる。どこで止まり、どこで離脱したか。その痕跡が蓄積され、次に現れるイメージは、「当たり」になりやすい方向へと確率的に最適化されていく。

ここではもはや、イメージそのものではなく、「注意の軌道」そのものが設計されている。
スクロールという行為は、この構造をもっとも端的に示している。

それは呼吸のように反復されながら、同時にガチャのように確率を引き続ける行為である。次に何が現れるかはわからない。しかし「自分にとって当たりらしいもの」が出現する確率だけが、静かに最適化されていく。


ここで起きている転換は決定的である。
かつてイメージは、時間の中で経験され、あとから評価された。映画や音楽は、その時間を強制し、観る/聴く者はそれに従った。当たりかどうかは、体験の後に判断されるものだった。
しかし現在、判断は体験の前にある。見るかどうかは一瞬で決まり、時間は細かく切断される。

イメージは「意味を持つ対象」ではなく、瞬間的な反応を引き起こすためのトリガーへと変化した。このとき、身体もまた変化する。スクロールする身体は、最小限の運動に最適化される。指先の反復、固定された視線、均一化された姿勢。そこではイメージは通過し、時間は消費される。

だが同時に、この環境は別のものを失っている。
それは、時間が生成される経験である。
すぐに判断できないもの、すぐに意味が回収できないもの、
一度では掴めず、しかしなぜか離れないもの。
そうした対象に対して、かつて身体は立ち止まり、視線は往復し、時間は伸びていた。

このとき重要なのは、「遅さ」そのものではない。
遅さとは単に時間がかかることではなく、身体が関与する余地があることである。このような「身体が関与する手がかり」は、絵画の中にさまざまなかたちで現れる。たとえば筆触のような要素も、単なる手作業の証拠ではなくなる。それは身体の痕跡であると同時に、視線がそこに引っかかり、運動を逆算し、時間を生成するための入口となる。
つまり重要なのは、痕跡があることではなく、その痕跡を追わずにいられない構造である。
ここにおいて、絵画は別の意味で現在的になる。

それは流通の速度から取り残されたメディアではなく、むしろ速度の中で失われたもの――時間、身体、未決定性――を再び引き受ける場として機能する。
スクロールが「当たりを選別する場」であるならば、絵画は「当たりがまだ現れていない状態に留まる場」である。

そこでは価値は即座に確定しない。しかし視線は戻り、関係は変わり、意味は遅れて立ち上がる。
言い換えれば、絵画の可能性とは、即座に消費されない時間を引き受けることにあるのかもしれない。
それがどのようなかたちで実現されるのかは、まだ定まっていない。
しかし少なくともそこには、現在のイメージ環境とは異なる時間の流れが生まれうる。


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