Vampire Weekendの音楽は、混成がすでに前提となった時代において、その先にある感覚を提示している。そこでは異なる文化や様式はもはや衝突せず、最初から同じ平面に並び、配置されるものとして扱われる。

まずその特徴は、作品ごとに異なるかたちで現れている。デビュー作『ヴァンパイア・ウィークエンド』において顕著なのは、その軽やかさである。ギターは乾いた音で刻まれ、リズムは跳ねるように進み、全体に風通しのよい空間が広がる。アフリカ系のリズムのニュアンスは自然に溶け込み、ボーカルは拍に対してわずかに前後しながら進む。この微細なズレが、楽曲に独特の浮遊感を与えている。しかしそれは不安定さにはならず、あくまでポップの枠内に収まっている。

続く『コントラ』では、その軽やかさがよりカラフルに展開される。音色の多様化によってサウンドは装飾的になり、ズレはやや制御される。結果として、楽曲全体の統一感が強まり、より洗練されたポップとして機能する。ここでは軽さは偶然ではなく、明確に設計されたものとなっている。

そして『モダン・ヴァンパイアズ・オブ・ザ・シティ』では、時間的な深みが加わる。リズムは落ち着き、ゴスペル的な響きや内省的な空気が前景化する。ズレは目立たなくなるが、その代わりに全体に緩やかな持続感が生まれる。しかしそれでも構造は揺らがない。

ここで重要なのは、この“揺らぎに近い感触”が、構造そのものの不安定化には至らない点である。たとえば ソニック・ユースにおいては、音そのものが重心を失い、楽曲の骨格が揺らぐが、ヴァンパイア・ウィークエンドの場合、そのような崩壊は決して起こらない。

このように、ヴァンパイア・ウィークエンドの音楽は、混成を前提とした「配置」の感覚によって成立している。彼らの作品において聴かれるアフリカ系リズムやクラシック的要素、ポップの形式は、異文化の融合として提示されるのではなく、最初から同じ平面に存在するものとして扱われている。そこにはもはや「混ぜる」という意識はほとんど感じられない。

この状態は、リズムの扱いにおいて最も明確に現れる。ビートは存在しているが、それにすべてが強く収束するわけではない。ギターやボーカルは拍に対してわずかに前後し、リズムは軽く跳ねるように進む。重要なのは、そのズレが不安定さや崩壊へと向かわない点である。構造は維持されたまま、内部に小さな揺れの余地が残されている。言い換えれば、彼らの音楽におけるズレは、構造の外部ではなく内部に留まっている。
この感覚は、トーキング・ヘッズの実践と対照的である。たとえば『リメイン・イン・ライト』においては、異なるリズムや文化的要素は緊張を伴って衝突し、音楽の内部に圧力を生み出していた。そこには明確な問題意識や外部への抵抗があり、混成は闘争の形式として現れていた。

またリンキン・パークにおいては、混成は高度に設計され、グリッドの中に整然と配置される。ラップ、メロディ、ギター、エレクトロニクスといった要素は、それぞれの役割を与えられ、最終的には一つの拍へと強く収束する。そこでは衝突は排除され、構造の明快さと感情の伝達が優先される。

これに対して、ヴァンパイア・ウィークエンドの音楽には、外部に向けられた敵意や抵抗の意識はほとんど見られない。彼らの出発点は、すでにジャンルや文化が並列化された環境であり、壊すべき明確な境界は存在していない。したがって彼らの関心は、外部との対立ではなく、内部における差異の扱いへと向かう。
その動機となっているのは、怒りではなく好奇心である。多様な音楽的要素は対立するものとしてではなく、観察され、収集され、配置される対象として扱われる。この点において、彼らの実践は近代の博物学的態度に近い。すなわち、世界を分類し、異なる要素を並置することで、新たな関係性を見出していく方法である。

その結果として生まれるのは、均質化された統合でも、破壊的な衝突でもない。異なる要素がそれぞれの質感を保ったまま、軽やかに共存する状態である。そこでは摩擦は感じられないが、それは完全に均一化されているからではなく、差異が適切な距離を保ったまま配置されているからである。
ヴァンパイア・ウィークエンドの音楽は、混成が問題であった時代を通過し、それが前提となった後の世界を示している。そこでは、いかに壊すかでも、いかに統合するかでもなく、いかに配置し、どのような距離を保つかが問われる。ズレは存在するが、それは揺らぎへとは至らない。むしろそのわずかなズレこそが、均質化された世界の中に残された、最小限の差異として機能しているのである。

配置から持続へ ― 時間のカツカレー
こうした配置の感覚は、同時代の視覚芸術にも対応するかたちで現れている。ただしそれは、異なる要素の単純な並置としてではなく、より緩やかに、時間の中で持続するイメージとして現れる。

とりわけピーター・ドイグの絵画において顕著なのは、異なる時間や記憶の層がひとつの画面の中に静かに重なり合う感覚である。風景、映画的なイメージ、個人的な記憶といった断片は、明確に区別されることなく共存し、ひとつの場面の中に複数の時間が滞留する。そこでは出来事は語られず、イメージは固定されることもなく、ゆるやかに持続し続ける。

この感覚は、ヴァンパイア・ウィークエンドの後期作品、特に『モダン・ヴァンパイアズ・オブ・ザ・シティ』以降において顕著になる時間意識と強く響き合っている。初期においては軽やかな同時性として現れていた音の配置は、やがて落ち着いたリズムとともに持続的な広がりを帯び、楽曲全体に緩やかな時間の流れをもたらすようになる。
重要なのは、この変化が断絶ではなく連続として生じている点である。すなわち、初期において成立していた配置の構造そのものは維持されたまま、その内部に時間が流れ込み、イメージに厚みが加わっているのである。それは何かが新たに付け加えられた結果ではなく、すでに存在していた関係性が、別の位相で現れ始めたものと考えるべきだろう。

この変化をカツカレーカルチャリズムの比喩で捉えるならば、それはトッピングの追加ではなく、調理時間の変化に近い。初期においては素材がそのままの鮮度で並び、軽やかな配置として提示されていたものが、時間の経過とともに内部でゆっくりと変化していく。しかし料理の形式そのものは変わらない。むしろ同じ器の中で、見えないレベルでの変化だけが進行している。
したがってここで重要になるのは、何が加えられたかではなく、どのような時間が流れ込んだかである。ヴァンパイア・ウィークエンドの音楽は、混成を前提とした空間的な配置から出発し、それを壊すことなく時間的な厚みを獲得していく。その過程においても、ズレは依然として揺らぎへとは至らない。むしろその安定した構造の中にこそ、現代的な感覚の持続が見出されるのである。
カツカレーカルチャリズム画家列伝88 ~ドイグ 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ


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