ロバート・ラウシェンバーグ(1925–2008、アメリカ)
世界を絵画に運び込む
ラウシェンバーグは、絵画の中に世界を入れてしまった。
新聞、写真、印刷物、古い家具、衣服、タイヤ、動物。

絵具だけで画面をつくることをやめ、身の回りにあるものを次々と作品の中へ持ち込んだ。
彼はこうした作品を「コンバイン」と呼んだ。

絵画と彫刻。
美術と日用品。
偶然と意図。
高級文化と大衆文化。
異なるものを、一つの場所に置く。
しかし、ラウシェンバーグの面白さは、単に「何でも入れる」ことではない。
そもそも彼は、絵画にはこうあるべきだという形式的な正解を、あまり信じていなかった。

だから、新しい正解をつくろうともしない。
新聞があれば使う。
写真があれば使う。
拾ったものがあれば置いてみる。
何が美しいのかを最初から決めるのではなく、世界との接触そのものを制作の出発点にしてしまう。

そして、異なるものが同じ場所に置かれると、互いの意味が変わる。
新聞の写真は、画面に入るとニュースではなくなる。
椅子やベッドは、日用品であると同時に作品になる。

写真は記録でありながら、絵具や線と同じ画面の要素になる。
つまり彼は、異なるものをただ混ぜたのではない。
異なるもの同士の関係をつくった。

その性格が、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレで、まるで事件のように現れる。
アメリカ代表として選ばれたラウシェンバーグの作品は、アメリカ館だけでは収まりきらず、旧アメリカ領事館まで使って展示された。
ところが、公式会場の外にある作品はグランプリの対象にならないことが分かる。
そこで《エクスプレス》などの大きな作品が、運河をボートで運ばれ、公式会場へ移された。

ウーゴ・ムラスが撮影した写真には、巨大な絵画を船に載せてヴェネツィアの水路を進む姿が残っている。
この光景が、妙にラウシェンバーグらしい。
絵画が船に乗っている。
絵画が街を移動している。
絵画が美術館の壁だけではなく、都市の交通や物流と関係している。

作品は、完成して壁に掛けられた瞬間だけ存在するのではない。
つくられ、運ばれ、置かれ、別の場所へ移される。
そのすべてが、世界との関係の中にある。
そして、その作品が最終的にヴェネツィア・ビエンナーレのグランプリを獲得する。

ラウシェンバーグの受賞は、戦後の美術の中心がヨーロッパからニューヨークへ移っていく象徴的な出来事にもなった。
ここには、ステラとは正反対の創造性がある。
ステラは、絵画の内部を突き詰めた。
ラウシェンバーグは、絵画の外側をどんどん入れていった。

ステラが形式を純化し、その論理を突き詰めることで、平面と空間、絵画と彫刻の境界を崩していったのだとすれば、ラウシェンバーグは世界を持ち込むことで、絵画と現実の境界を曖昧にした。
一方は、絵画の内部から外へ出た。
もう一方は、外部を絵画の中へ入れた。

だから彼の作品は、ときに雑然として見える。
しかし、その雑然とした状態こそが重要だった。
世界は最初から整っていない。

写真も、広告も、新聞も、日用品も、記憶も、偶然も、同じ場所に存在している。
ならば、絵画だけが、それらをきれいに分けておく必要はない。
ラウシェンバーグは、世界の雑種性をそのまま作品の構造にした。
そして、その雑種性は、単なる混沌ではない。

異なるものが一つの画面に入ることで、それぞれの意味が変わり、新しい関係が生まれる。
カツカレーで言えば、彼はカツとカレーを別々に美しく盛ったのではない。
新聞も、写真も、タイヤも、ベッドも、絵具も、偶然も、全部を一皿に載せてしまった。
そして、その皿そのものを船に乗せ、ヴェネツィアまで運んでいった。
世界を混ぜたら、絵画になったのだ。

カツカレーカルチャリズム画家列伝42 ~ロバート・ラウシェンバーグ 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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