私たちは、自分のことを一人の人間だと思っている。
会社で働いているときも、家族と過ごしているときも、友人と話しているときも、それらは同じ自分の異なる姿だと考える。状況によって振る舞いが変わることはあっても、その奥には変わらない自分がいる。そんなふうに考えることは、ごく自然なことだろう。
けれども、実際にはどうだろうか。

仕事をしているときの自分と、家族といるときの自分では、使う言葉も、判断の基準も、身体の感覚さえも違っていることがある。ある場所では自然にできることが、別の場所ではうまくできない。反対に、普段は意識していない性格が、特定の人といるときにだけ現れることもある。
それらは、一人の人間が状況に応じて使い分けているだけなのだろうか。それとも、それぞれの関係の中で、異なる自分が形づくられているのだろうか。
私たちは、自分の内側に一つの中心があり、そこからさまざまな自分が生まれていると考えがちだ。しかし、その中心を探そうとすると、少し不思議なことが起こる。
自分の性格を説明しようとすれば、過去の経験を思い出す。自分が何者なのかを考えれば、仕事や家族、趣味や人間関係が浮かんでくる。自分を理解するための言葉は、すでに他者との関係や社会の中で覚えたものでもある。
自分について考えているはずなのに、そこには自分だけではつくることのできないものが入り込んでいる。

ここで思い出すのが、ジャック・ラカンの考え方だ。
ラカンは、人間が自分自身を一つのまとまった存在として理解することと、他者やイメージとの関係を深く結びつけて考えた。自分という存在は、最初から内側に完成した形で備わっているわけではない。他者との関係や、自分を捉えるためのイメージや言葉を通じて、私たちは自分自身を理解していく。
また、ラカンの「まなざし」という考え方は、私たちが世界を見ている主体であると同時に、自分では完全に把握できない仕方で、見られる世界の中にもいることを示している。
ここでいうまなざしは、単に他人の目を気にするということではない。自分が世界を見渡し、自分のことも理解できているつもりでも、その視点だけでは捉えきれないものがあるということだ。
私たちは、自分がどのように見られているのかを完全には知ることができない。自分では変わらないつもりでいても、他者から見れば違う人間かもしれない。ある人にとっては頼りになる存在でも、別の人にとっては近寄りがたい存在かもしれない。
そして、そうした他者のまなざしは、自分の外側にあるだけではない。誰かからどう見られているかを想像し、その視点を自分の中に取り込むことで、私たち自身の振る舞いや自己理解も変わっていく。
自分を見ているつもりの自分もまた、他者との関係の中にいる。
そう考えると、自分という存在を一つの視点から完全に説明することは、最初から難しいのかもしれない。

猫のアイコンを使っている自分も、仕事をしている自分も、誰かと話している自分も、それぞれ異なる関係の中にいる。もちろん、それらがまったく別の人間というわけではない。しかし、それらを結びつける中心が、いつでも明確に存在しているとも限らない。
むしろ、異なる自分の間を行き来することによって、私たちは自分という存在を保っているのではないだろうか。
ここで、アバターという言葉に戻ってみたい。
アバターは、自分の代わりに他者の前に現れる姿である。猫のアイコンも、アニメのキャラクターも、仕事上の肩書きも、それぞれ自分を他者に伝えるための形として機能する。
しかし、アバターは、すでに存在している自分を外側から飾るだけのものではない。ある姿を選び、それを使い続け、他者からその姿を通して認識されることで、自分自身のあり方も少しずつ変わっていく。

最初は自分が選んだはずの姿が、いつの間にか自分の一部になっている。自分を表現するための記号だったものが、自分を理解するための手がかりにもなっている。
そこでは、自分がアバターを使っているのか、アバターを通して自分が形づくられているのか、簡単には区別できない。
もちろん、私たちは好きな姿を自由に選べるわけではない。社会的な役割や他者からの期待によって、選べる振る舞いが限られることもある。反対に、自分が選んだ姿が、周囲の期待から外れてしまうこともある。
それでも、私たちは複数の姿を使いながら、その間を生きている。
そこに、すべての姿を統合する本当の自分がいるのかどうかは、わからない。少なくとも、他者との関係から切り離された場所に、完全な自分を見つけることは簡単ではないだろう。
けれども、それは自分を失うことと同じではない。
一つの姿に収まりきらないこと。自分でも説明しきれない部分が残っていること。ある場所では自然にできることが、別の場所ではできないこと。そうしたずれや不一致もまた、自分という存在の一部なのだと思う。

猫のアイコンも、色の記号も、社会的な役割も、自分をわかりやすく伝えるための手段である。しかし、それらによって自分のすべてが説明されるわけではない。
私たちは、さまざまな姿を通して他者と関わり、その関係の中で自分自身を知っていく。それでも、自分についての理解が完全に閉じることはない。
自分が何者なのかを考えることは、一つの答えにたどり着くことではなく、異なる自分の間にある距離や、そこからこぼれ落ちるものに気づいていくことなのかもしれない。
一つになれない自分を、無理に一つにまとめなくてもいい。
私たちは、複数の姿を持ちながら、それらの間を生きている。その姿は固定された本質の表れというよりも、他者や社会、イメージとの関係の中で、その都度、形を持つものなのかもしれない。


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