混ぜすぎた美術史 116 ~もう一つの現代性 ─ 見えない世界が増えていった時代

アート

戦後の美術を考えるとき、まず目に入ってくるのは、進歩の物語である。

科学技術は急速に発展した。新しい素材、新しい機械、新しい通信手段が次々に登場し、人間はより速く、より遠くへ進めるようになった。宇宙開発、コンピューター、テレビ、ジェット機。世界はかつてない速度で変化していた。

出典:Artpedia/ソビエトのスプートニクの打ち上げ

美術もまた、その変化に応答していった。

絵画は自らの条件を突き詰め、やがて平面を越えて空間へ出ていく。彫刻は台座を離れ、作品は環境や場所へ広がっていく。コンセプチュアル・アートでは、物質そのものよりも、情報や言葉、制度、アイデアが作品になっていく。

こうした流れは、近代以降の「新しいものへ進む」という物語として、とても理解しやすい。

しかし、同じ時代には、もう一つの現実があった。

科学技術が進歩するほど、世界が明るくなったとは限らない。

出典:Artpedia/アメリカの偵察機U2からの偵察写真、キューバのソビエトミサイル基地

冷戦は、二つの巨大な政治体制が直接戦争をしないまま、核兵器、諜報活動、軍事技術、プロパガンダによって緊張を続ける時代だった。核兵器は、一瞬で都市を消滅させるほどの力を持ちながら、その全貌は普通の生活からは見えない場所にあった。

ヨーロッパでは、ドイツが東西に分断された。

出典:Artpedia/ベルリンの壁の建設

同じ言語を話し、同じ歴史を持つ人々が、異なる政治体制のもとで暮らす。ベルリンには壁が築かれ、人間の移動そのものが政治によって制限された。

出典:Artpedia/閉鎖されたブランデンブルク門

そこにあったのは、単純な「敵」と「味方」だけではない。

国家が何を知っているのか。

何を隠しているのか。

どこまでが本当なのか。

新聞やテレビが伝えていることの背後に、何があるのか。

出典:Artpedia/ベトナム戦争とテレビ放送

そうした問いが、社会の中に少しずつ入り込んでいった。

1960年代に入ると、政治的な暴力も続いた。ケネディ大統領、マルコムX、マーティン・ルーサー・キング、ロバート・ケネディ。社会を象徴する人物たちが相次いで暗殺される。

出典:Artpedia/ケネディ大統領パレード
出典:Artpedia/ケネディ大統領暗殺
出典:Artpedia/キング牧師とマルコムX

ベトナム戦争では、それまで遠い場所で起きていた戦争が、テレビを通して家庭の中に入ってきた。

そして1970年代には、ペンタゴン・ペーパーズやウォーターゲート事件によって、政府が公に語っていたことと、実際に行われていたことの間に大きな隔たりがあることが、広く意識されるようになる。

出典:Artpedia/ペンタゴン・ペーパーズ/ベトナム戦争秘密報告書

ここで重要なのは、「人々が国家機密をすべて知るようになった」ということではない。

むしろ逆である。

世界には、自分たちには見えていない巨大な領域がある。

そのことが、以前よりはっきりと感じられるようになったのである。

テレビによって情報は増えた。

新聞も、写真も、映像も増えた。

出典:Artpedia/左:ワシントンD.C.のフォギーボトム地区にあるウォーターゲート複合施設。右:ウォーターゲート窃盗時に使われ、ホワイトハウスの金庫で発見された小型マイク付きのリップクリームチューブ

月面着陸さえリアルタイムで見ることができるようになった。

しかし、情報が増えることと、世界が分かることは同じではなかった。

むしろ、見えるものが増えるほど、その背後にある見えないものも大きくなっていった。

出典:Artpedia/NASA宇宙開発―月面着陸

これは、進歩史観の表側には置きにくい現実だった。

科学技術は、人間の能力を拡張する。

しかし同時に、人間には理解できないほど巨大なシステムも生み出す。

出典:Artpedia/NASA宇宙開発―月から見た地球

都市、国家、軍事、情報、金融、メディア、コンピューター。

個人の目には見えないところで、世界を動かしているものが増えていった。

こうした時代の空気を、すべての人が同じように意識していたわけではない。

しかし、社会の変化に鋭く反応する芸術家たちは、そこにある不安や違和感を感じ取っていたのではないか。

そして、その感覚を表現する方法は、必ずしも新しい技術や新しい形式だけではなかった。

むしろ一部の作家たちは、古い技術へ向かった。

精密な描写。

遠近法。

陰影。

人体。

神話。

宗教。

装飾。

幻想。

夢。

怪物。

それらは一見すると、未来へ向かう現代美術とは逆方向に見える。

しかし、そうではない。

古典的な描写力によって、現代の目には見えないものを描こうとすることもできる。

現実が複雑になり、説明できないものが増えていくとき、幻想は現実逃避ではなくなる。

出典:Artpedia/エルンスト・フックス「アダム・ミスティカス」

現実そのものが、すでに幻想のようになっていたからである。

この視点から見ると、戦後ヨーロッパを中心に現れた幻想的な絵画や、異様な身体、神話的な世界、過剰な装飾、存在しない風景を描く作家たちは、単純な「古典回帰」ではない。

彼らは、進歩の物語からこぼれ落ちたものを拾い上げていた。

そして、それを現代の世界の中に置き直していた。

ボスやゴヤ、ダリの作品を思い出してみてもいい。

出典:Artpedia/ヒエロニムス・ボス「キリストの信者であるヒエロニムス・ボス」
出典:Artpedia/フランシスコ・デ・ゴヤ「魔女の安息日」
出典:Artpedia/サルバドール・ダリ「夜のスパイダー」

歴史の中には、合理的に説明できない不安や欲望、暴力や狂気を、幻想的なイメージとして描いてきた瞬間が何度もある。

それらは過去の遺物ではない。

時代が不安定になるたびに、別のかたちで蘇ってくる。

戦後のヨーロッパにも、そうしたもう一つの現代性があった。

ウィーン幻想派の画家たち、ハウズナー、フックス、フッター、ブラウアー、レームデンは、古典的な技術を使いながら、夢、身体、神話、欲望、死を描いた。

出典:Artpedia/ルドルフ・ハウズナー「アダム マーステープリヒ」

ここでは、絵画は現実をそのまま再現するための道具ではない。

細密な描写によって、むしろ現実の奥に潜んでいるものを浮かび上がらせる。

その方向は、ウィーン幻想派だけに限られなかった。

ホルスト・ヤンセンの細密な線描も、その一つの例として見ることができる。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「自画像」

ヤンセンは、デューラー以来のドイツの版画や素描の伝統を思わせる精密な線を使いながら、人体、死、欲望、動物、神話的なイメージを執拗に描いた。

その線は、対象をきれいに説明するためのものではない。

身体はしばしば変形し、表情は不安定になり、人物や動物は現実と幻想のあいだを行き来する。

古い技法を使いながら、描かれている世界は決して古くない。

むしろ、現代の身体が抱えている不安や欲望が、古い線描の中から異様なほど生々しく現れてくる。

ここでは「古典に戻る」ことと「現代から逃げる」ことは同じではない。

古い技法だからこそ、現在の目には見えにくいものを描くことができる。

フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーも、合理化された都市に対して、自然や有機的な形を持ち込んだ。

出典:Artpedia/フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー「サード・スキン」

ズジスワフ・ベクシンスキーは、どこにも存在しない廃墟や身体を、異様なほどリアルに描いた。

出典:Artpedia/ズジスワフ・ベクシンスキー「ブラマ」

H・R・ギーガーは、人体と機械、生命と構造物の境界を曖昧にした。

出典:Artpedia/H・R・ギーガー「ネクロノミコン IV」

オッド・ネルドルムは、現代とは別の時間が存在するかのような古典的世界をつくった。

出典:Artpedia/オッド・ネルドルム「海辺のカフカ」

そして、ここにマティ・クラ―ワインを加えると、もう一つの方向が見えてくる。

クラ―ワインの画面には、ルネサンス的な人体、宗教的なイメージ、東洋的な図像、神話、動物、性、SF、サイケデリックな色彩などが同時に現れる。

出典:Artpedia/マティ・クラ―ワイン「受胎告知」

それらは、一つの様式に整理されるわけではない。

異なる時代や文化からやってきたイメージが、同じ画面の中で重なり合っている。

クラ―ワインにとって、過去は過去のまま保存されるものではない。

過去のイメージは、現在の視覚文化の中に入り込み、別の意味を持ちはじめる。

そこでは、古典と現代、宗教とポップ、東洋と西洋、身体と宇宙が、一枚の絵の中に積層していく。

これは「古典回帰」と呼ぶには複雑すぎる。

むしろ、すでに増えすぎてしまったイメージの世界を、一つの画面に引き受ける方法だった。

ヤンセンが一本の線の中に過去と現在を重ねたとすれば、クラ―ワインは複数の文化と時間を一つの画面に重ねた。

出典:Artpedia/ホルスト・ヤンセン「マグダレネングルース VI」

方法は違っていても、そこには共通して、現代を「新しいものだけで構成された時代」として見ない態度がある。

そしてヤンセンやクラ―ワインのような作家を挟むことで、幻想という言葉の意味も少し変わってくる。

出典:Artpedia/マティ・クラ―ワイン「虹の彼方」

幻想とは、現実ではないものを描くことではない。

むしろ、現実の中にすでに存在している複数の時間、記憶、欲望、恐怖、文化、イメージを、目に見える形にすることでもある。

この意味では、ベクシンスキーの廃墟も、ギーガーの身体と機械も、ネルドルムの古典世界も、現代から遠ざかるためのイメージではない。

現代の中に入り込んでいる、別の時間を可視化するためのイメージなのである。

そしてヤン・ファーブルは、身体、自然、昆虫、装飾、神話、舞台、空間を横断しながら、それらを巨大な一つの世界へ組み上げていった。

出典:Artpedia/ヤン・ファーブル「ヘブン・オブ・ディライト」

ここにあるのは、「古典に戻る」という単純な話ではない。

現代が隠してしまったものを、古典的な技術や幻想の力によって、もう一度見えるものにする。

そのための別の現代美術である。

出典:Artpedia/ヤン・ファーブル「ヘブン・オブ・ディライト」(部分)

前章で見たステラとラウシェンバーグが、美術の内部と外部にそれぞれ裂け目をつくったのだとすれば、ここでは別の裂け目が現れる。

一方では、科学、技術、情報、制度へと美術が進んでいく。

もう一方では、身体、神話、幻想、古典、自然へと深く潜っていく。

どちらも現代を扱っている。

ただ、その現代への触れ方が違う。

そして、この二つは完全に別れているわけでもない。

出典:Artpedia/ヤン・ファーブル「ヘブン・オブ・ディライト」

科学技術が発達し、情報が増え、世界が複雑になるほど、人間の記憶や身体、神話や幻想もまた、新しい意味を持ちはじめる。

ビターなルーのように、社会の底には、進歩の物語だけでは語れない苦味が沈んでいた。

その上に、古典的な描写、神話、身体、幻想、自然、SF、装飾が、何層にも重なっていく。

ミルフィーユのように、過去と現在、現実と幻想、身体と機械が層をつくる。

それは、もう一つのカツカレーである。

混ぜるのではなく、積み重ねる。

そして、その層のあいだから、進歩の物語では見えなかった世界が立ち上がってくる。

出典:Artpedia/ヤン・ファーブル「天使の上り坂の壁」

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