統一と単一化は違う
第1章で見たように、現在の画像環境では、画面が一つの強いイメージへと最適化されていく。
そこでは、制作の途中にあった迷い、修正、別の視点、別の時間が、最終的な一枚の現在へと吸収される。
時間が消えていくのである。
第2章では、その消えていく時間の中で、どのように新しさが生まれるのかを考えた。
新しさは、まだ誰も見たことのない形を発明することではなく、制作の途中で起きた予想外の出来事を呼び込み、それを次の判断へ変換する循環の中に現れる。
新しさは、発明ではなく発見である。
そしてその発見は、時間の層として画面に残る。

では、こうした「時間の消失」と「時間の呼び込み」のあいだで、絵画はどのように時間を扱ってきたのだろうか。
ここで、もう一度「統一」という問題に戻りたい。
現代の画像は、一瞬で意味が伝わることを強く求められる。
人物の表情、ポーズ、色、構図、キャラクターの特徴などが、一枚の画面の中で明快に整理される。
画像は、見る人が迷わず理解できる「強い現在」へと圧縮されていく。
しかし、絵画の歴史を振り返ると、完成された一枚の画面が、必ずしも一つの時間だけを描いてきたわけではない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》では、一つの出来事の内部に複数の身体の時間がある。

ラファエロの《アテネの学堂》では、統一された空間の内部に複数の思考の時間がある。

セザンヌは、見るという経験そのものを画面に重ね、キュビスムは複数の視点を同時に存在させ、抽象表現主義は制作の速度やためらいを画面の表面として残した。




つまり絵画は、「一瞬を描く」ことから離れながら、別の仕方で時間を画面に取り込んできた。
そして現代の作家たちもまた、単一化された現在に抗いながら、画面の中に複数の時間を生かす方法を探している。
リタ・アッカーマンの作品では、描くことと消すことが同じ画面の中で往復し、身体の速度、ためらい、反復が層として残る。

ジュリー・メヘルツの巨大な画面では、建築的な統一空間の内部に、都市の歴史、移動の軌跡、視線の速度が同時に存在する。

マーク・ブラッドフォードは、都市の広告や地図を剥離しながら貼り重ね、社会の時間と制作の時間を一枚の画面に共存させる。

アルベルト・オーレンやシャーリン・フォン・ヘイルは、異なる絵画言語を一枚の中に共存させ、画面の中を移動しながら発見する時間をつくり出す。

これらの作品は、古典絵画が発見した「統一された画面の中に複数の時間を生かす」という構造が、現在の画像環境においてもなお有効であることを示している。

ここで重要なのは、統一と単一化は違うということだ。
統一された画面でも、複数の時間は存在できる。
むしろ絵画は、異なる出来事や身体、思考、感情を、一つの画面の中に共存させることで、一枚では本来同時に存在できないものを存在させてきた。
問題なのは「完成しているか、いないか」ではない。
一つの現在にすべてを回収してしまうのか、それとも、一つの画面の中に異なる時間が生き続けられるのか。
現代のイラストやグラフィックでは、画像を一目で理解できることが大きな価値になる。
しかし、画像が「一瞬でわかること」へ最適化されすぎると、見る側が画面の中を移動しながら発見する時間まで圧縮されてしまう。
第1章で見た「時間の消失」は、ここでさらに深刻になる。
だからこそ、絵画に残されてきた複数の時間が、もう一度重要になってくる。

それは、単に制作過程を画面に残すことではない。
画面の中に複数の行為を置くことかもしれない。
異なる視点を重ねることかもしれない。
過去の記憶を現在の像に混ぜることかもしれない。
あるいは、見る人が画面を行き来しながら、自分自身の時間をつくることかもしれない。

第2章で考えた「呼び込み」は、ここで「共存」へと変わる。
《最後の晩餐》では、一瞬の出来事の中に、それぞれの身体の時間がある。

《アテネの学堂》では、一つの空間の中に、それぞれの思考の時間がある。

近代絵画では、見ること、制作すること、記憶することそのものが、画面の時間になっていった。
そして現代絵画では、身体の時間、都市の時間、社会の時間、制作の時間が、統一された画面の中で共存している。
こうして三つの章を通して見えてくるのは、絵画にとって重要なのは「時間を描く」ことではなく、一枚の画面の中に、複数の時間が存在できる状態をつくることなのかもしれないということである。

さらに、その時間は画面の中だけにある必要もない。
見る人が画面の中を探し、戻り、比較し、発見する。
その行為によって、静止した画像の中に新しい時間が発生する。
絵画は、時間を保存するだけではなく、時間を発生させることもできる。

新しい形を発明することが難しくなった現在、新しさは必ずしも「まだ見たことのない画像」をつくることではない。
一つの画面の中に、これまで別々だった時間を共存させる。
一つの出来事の中に、異なる経験を置く。
一つの完成された像の中に、見る人がまだ発見していない時間を残す。
統一された画面の中に、複数の時間を生かす。
それは、画面を複雑にすることではない。
一つにまとめながら、一つにしてしまわないこと。
第1章で消えた時間が、第2章で呼び込まれ、第3章で共存する。
この三つの地層が重なったとき、絵画はもう一度、現在の画像環境に対して独自の可能性を持ち始める。
画像がますます速く、正確に、強く完成されていく時代だからこそ、
私たちはもう一度、画面の中にどのような時間を残し、 見る人の中にどのような時間を発生させるのかを考える必要がある。


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