エラーと呼び込みから生まれるもの
では、完成度の高い画像が、複数の時間を一つの強いイメージへと圧縮していくとしたら、新しさはいったいどこから生まれるのだろう。
かつての美術では、「新しい形をつくること」が新しさの大きな基準になっていた。
誰も見たことのない色。
誰もやったことのない構図。
それまで存在しなかった素材や技法。
美術史は、そうした新規性の連続として語ることができる。

しかし、現在はビジュアルそのものを新しくすることが極端に難しくなっている。
過去の美術だけではない。漫画、アニメ、広告、ファッション、ゲーム、写真、SNS。世界中の画像が瞬時に参照でき、組み合わせることもできる。
「まだ誰も見たことのない画像」をつくることは、以前よりはるかに難しい。
だからといって、新しさがなくなったわけではない。
むしろ、新しさの場所が変わってきたのではないか。

たとえば、二つのものを組み合わせたとき、それぞれはすでに見慣れたものなのに、なぜか新鮮に感じることがある。
新しいのは、個々の要素ではない。
その二つが、そこに一緒に存在していることである。
新しさは、形そのものではなく、関係の中に発生する。
これは、画像が飽和した時代には重要なことだと思う。
しかし、さらに別の新しさがある。

制作の途中で起きるエラーである。
線が少しずれた。
色を間違えた。
思っていた場所に形が入らなかった。
これまでは、そうしたものは完成を妨げるものとして扱われてきた。
違うから消す。
そして、正しい線を引き直す。

前のコラムで見たように、これは「更新」の基本的な構造でもある。
現在の線を否定し、より良い線へ更新する。
この能力は重要である。
しかし、あるところから別の可能性が生まれる。
「この間違った線を、消さなくてもいいのではないか。」
そこでエラーが残る。

すると、そこから次の判断が発生する。
「この線が残ったなら、こちらの形を変えてみよう。」
さらに別の形が生まれる。
「だったら、この色を入れてみよう。」
すると、最初には存在しなかった画面が現れる。
ここでは、作者が最初から新しいものを設計したわけではない。
制作中に起きた出来事を受け取り、それに応答することで、新しいものが生まれている。
新しさを「発明する」のではなく、「発見する」。
この違いは大きい。
制作は、
エラー
↓
判断
↓
操作
↓
新しいエラー
↓
判断
という循環になる。

この循環を、ここでは「呼び込み」と呼んでみたい。
偶然をただ放置するのではない。
偶然によって生じたものを受け取り、それを次の制作へ呼び込む。
すると作者は、作品を一方的につくる人ではなくなる。
画面から返ってくるものを受け取りながら、次の判断をつくる人になる。

ここでは、「自分の意図」が作品を完全に支配しているわけではない。
しかし、偶然に任せているわけでもない。
意図と偶然のあいだで、作品が少しずつ変わっていく。
このとき、作家自身にも予想できなかったものが作品の中に入り込む。
それは、単なる「偶然の面白さ」ではない。
自分がまだ知らなかった自分の判断に出会うことでもある。
だから、新しさとは「自分が考えたことのないものを考える」ことだけではない。
自分がまだ知らなかったものを、自分の制作の中から発見することでもある。
この考え方に立つと、「完成度」の意味も変わってくる。

完成度が高い作品とは、必ずしもエラーがない作品ではない。
むしろ、エラーや偶然を含みながら、それらを作品の中で新しい関係へ変換できることも、別の意味での完成度と言える。
そこでは、完成とは「すべてを正しくすること」ではない。
起きてしまったことを、どこまで次の可能性へ変えられるか。
完成の意味そのものが変わってくる。
そして、ここで「新しさ」の意味も変わる。

これまでの新しさは、主に「まだ存在しなかったものをつくること」だった。
これからの新しさは、むしろ、
これまで別々だったものを一緒に経験できるようにすること。
これまでエラーだったものを、別の価値として受け取れるようにすること。
これまで見過ごしていたものに、新しい見方を与えること。
そうした方向へ広がっていくのではないか。
これは作品をつくる側だけの問題ではない。
見る側にも変化が必要になる。


「上手いか、下手か。」
「完成しているか、未完成か。」
「意図的か、偶然か。」
そうした二択だけではなく、
この作品のどこで、予想外のことが起きているのか。
作者はそこから何を呼び込んだのか。
と見る。
すると、作品を見ることもまた、一つの「発見」になる。
作品の価値は、最初から完璧な設計図を持っていたことだけでは測れない。

制作の途中で世界から返ってきたものを、どれだけ新しい経験として受け取れたか。
そして、その経験をどれだけ見る側へ渡すことができたか。
そこにも新しさは宿る。
そう考えると、美術史における「新しさ」も読み替えられる。
新しい形を一つ追加したかどうかだけではない。
それまで存在しなかった経験の仕方を、どれだけ社会の中に定着させたか。

それもまた、美術史における新しさだったのではないか。
キュビズムは、単に新しい形を発明したのではない。
一つの対象を複数の視点から同時に経験することを可能にした。
ラウシェンバーグは、絵画と日常のものを同じ画面で経験することを可能にした。

そして、これからの作品は、完成とエラー、意図と偶然、作者と見る人、過去と現在を、もっと複雑に同居させることができるかもしれない。
画像が飽和した時代に必要なのは、まだ誰も見たことのない画像を無理につくることではない。
見慣れたものを、まだ経験したことのない関係で出会わせること。
そして、制作の途中で起きた予想外の出来事を、消さずに次の可能性へ変えていくこと。

新しさは、真っ白な場所から突然生まれるものではない。
すでにあるものの上に、エラーが残り、記憶が重なり、別のものが呼び込まれ、その関係が少しずつ変わっていく。
つまり新しさもまた、地層として生まれる。
新しいものとは、過去がないものではない。
過去が予想外の仕方で、現在にもう一度現れることなのかもしれない。


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