フリーデル・ズーバス(1915–1994、ドイツ/アメリカ)
色が、風景になる
フリーデル・ズーバスの絵を見ると、最初は幾何学的な形が見える。
四角形。
直方体のような形。
赤、青、緑、黄色。

ところが、しばらく見ていると、それらの形が少しずつ別のものに見えてくる。
岩。
崖。
地層。
遠くに連なる山。
あるいは、巨大な生き物の身体。
不思議なのは、ズーバスが風景を描いているわけではないことだ。

色の面が重なっている。
その一部は平面的で、別の部分は少し膨らんで見える。
色と色が重なり、押し合い、前後しながら、画面の中に奥行きが生まれている。
まるで、平面の上に空間が発生しているようだ。
ここがズーバスの面白さだと思う。

彼は幾何学的な形を、建築のようにきっちり組み立てているわけではない。
むしろ、色が重なっていくうちに、形と空間が生まれてくる。
平面だった色が、少しだけ膨らむ。
その隣の色は平らなまま残る。
さらに別の色がその上に重なる。
すると、そこに前後関係が生まれる。

しかし、それは透視図法による空間ではない。
色そのものがつくる空間だ。
だから、形と形の境界も硬くない。
キワが柔らかい。
ひとつの形が完全に閉じるのではなく、隣の色に押され、重なり、少しずつ姿を変えていく。
四角形なのに、四角形として固定されない。
色が動いた結果として、形が残っているように見える。
そのため、画面には妙に自然な感じがある。
山を描いていないのに、山のように見える。
岩を描いていないのに、岩のように感じる。

地層を描いていないのに、何層もの時間が重なっているように見える。
これは「何が描かれているか」という問題ではない。
色の重なり方そのものが、風景を見るときの感覚を呼び起こしている。
ここでは、色は単なる表面ではない。
色が重なり、厚みを持ち、前後関係をつくり、空間を発生させる。
それは完全な立体でもなければ、完全な平面でもない。
平面の中に、立体の気配が入り込んでいる。
そして、その気配が風景になる。

この点で、ズーバスは「画面をどう構成するか」という方向とは少し違う。
最初に空間を設計して、そこへ形を配置するのではない。
色と色が出会い、重なり、押し合う。
その結果として、いつの間にか空間が生まれている。
だから、ズーバスの絵には、人工的な幾何学と自然のような空間が同居している。
色彩は洗練されている。
形も一見すると単純だ。
それなのに、画面の中には重力や風、水、地面のようなものを感じる。
生々しいのに、妙におしゃれなのだ。

カラーフィールドが純粋な色と平面を追い詰めていった先で、ズーバスの絵では、色そのものが空間を発生させ始める。
純粋な色。
単純な形。
平面的な画面。
それらを組み合わせただけのはずなのに、そこから風景が見えてくる。
自然が戻ってくる。
身体まで感じられてくる。

つまり、純粋にした結果、純粋ではないものが見えてきた。
そして、ここには後のネオ・エクスプレッショニズムにつながる感覚も、少しだけ見えてくる。
人物や物語を描かなくても、形そのものが生々しくなる。
ただしズーバスは、身体や欲望を直接ぶつけるわけではない。
もっと静かに、もっと洗練された方法で、抽象の中に世界を発生させている。
ルイスが色を染み込ませた。
ノーランドが色を並べた。
オリツキーが色を漂わせた。
プーンズが色を積み上げた。
そしてズーバスは、色を重ね、そこに空間を発生させた。 彼は皿に、色と色を重ねながら、平面の中に風景を盛ったのだ。


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