ケネス・ノーランド(1924–2010、アメリカ)
円は何のためにあるのか
ケネス・ノーランドの絵を見ると、最初に「なぜ円なんだろう」と思う。
同心円。
赤、青、黄色、緑。
一見すると標的のようにも見える。

しかし、ノーランドの円は何かを狙っているわけではない。
円は、色を働かせるための形だった。
人物でも風景でもない。意味を背負いにくい単純な形だからこそ、その内部で色そのものを試すことができる。

ノーランドが学んだジョセフ・アルバースの色彩論では、色は単独で決まらない。同じ黄色でも、隣に青を置けば冷たく見え、赤の隣では明るく強く見える。

ノーランドはこの色の相対性を、大きなキャンバスの中で試した。
中心に一色を置き、その外側に別の色を重ねる。
すると、色は平面に置かれているだけなのに、前に出たり、後ろへ退いたりする。
これはハンス・ホフマンの「プッシュ・アンド・プル」にもつながっている。

ただし、ホフマンの画面では色面や形そのものがぶつかり、画面を押したり引いたりする。ノーランドでは形はほとんど動かない。その代わり、色だけが動く。
画面は平らなまま、見る者の視覚の中で空間が前後する。
ここには、制作そのものの変化もある。
抽象表現主義では、身体の動きが色や形を生み出していた。ポロックの線、デ・クーニングの筆触、ホフマンの色面。身体が動くことと、画面が生まれることが一体になっている。
ところがノーランドでは、まず円を決め、その中に色を配置する。
つまり、形を先に設定し、その条件の中で身体が働く。

しかも、円やシェブロン、ストライプをつくるには、輪郭を決め、色を分け、幅や比率を調整する作業が必要になる。モリス・ルイスと同じように絵具をキャンバスに染み込ませながら、その一方で「どこに、どの色を、どれだけ置くか」という作為が強くなっていく。
ここで「作る」という行為の意味が変わり始める。

身体が動くから形が生まれるのではなく、形を決め、その条件の中で何が起こるかを見る。
「なぜこの形なのか」という必然を、象徴や感情にまで求める必要もなくなる。
円にした。
この色を置いた。
この幅にした。
では、その条件で何が見えてくるのか。

やがてノーランドは円からシェブロン、ダイヤモンド、ストライプへと形を変えていく。もう円である必要さえなくなる。
必要なのは、色を配置するための条件を設定することだった。
この態度は、後のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートでさらに徹底される。「こうする」と決め、その条件の中で何が起こるかを見る。ミニマルでは形や寸法、反復が条件となり、コンセプチュアルでは、そのルールや指示そのものが作品になっていく。

ノーランドはそこまで進まない。
しかし彼の絵には、作為の場所が「どう描くか」から「何を設定するか」へ移っていく変化が見える。
だからノーランドの円は、単なる色の器ではない。
それは、色を見るためのルールでもあった。
モリス・ルイスが色をキャンバスに染み込ませたとすれば、ノーランドは色と色の関係を設定した。
抽象表現主義が身体から形を発生させたとすれば、ノーランドは形を先に置き、その中で身体を働かせた。

だから彼の円は、的ではない。
色と色を並べ、互いの味を引き立てるための皿なのだ。
絵画を「何かを描く場所」から、「条件を設定し、その結果を見る場所」へ。
ノーランドの円は、その小さな転換点に立っている。
だからノーランドの円は、的ではない。
色を並べるための皿なのだ。
彼はそこに、色を盛り、隣り合う色の味を確かめたのだ。


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