ヒップホップでは、リアルであることが長く価値とされてきた。
どこで育ち、何を経験し、どんな生活を送ってきたのか。その人生そのものがラップの説得力になる。だからこそ、多くのラッパーは、自らの現実を武器として語ってきた。
しかし、リック・ロス(Rick Ross)の『テフロン・ドン(Teflon Don)』(2010)は、その価値観を少し違った方向へ押し広げた作品だった。

リック・ロスは巨大な犯罪組織のボスを思わせる威厳をまとい、高級車、葉巻、シャンパン、豪邸を背景に、圧倒的な成功者の世界をラップする。その姿は現実というより、一つの映画の主人公のようである。
ところが2008年、彼がかつて刑務所の看守として働いていた経歴が明らかになると、ヒップホップ界は騒然となった。
「一体どっちが本当なんだ。」
本物のギャングなのか。それとも演じているだけなのか。
ギャングスタ・ラップが「リアル」を重視してきた文化だったからこそ、この出来事は大きな論争を呼んだ。

しかし興味深いのは、その出来事によってリック・ロスという存在が失われなかったことである。
むしろ彼は、その後さらにスケールの大きな作品を生み出していく。
リック・ロスは「リアルを語る」のではなく、「リアルを編集して世界を作る」タイプのラッパーである。 その世界は虚構だが、虚構は現実の反対ではない。 虚構は、現実を拡張するための編集装置である。
その頂点の一つが『テフロン・ドン』だった。
アルバムの冒頭、女性の声が静かに告げる。
「メイバック・ミュージック…」
この短いジングルが流れた瞬間、聴き手はリック・ロスが築いた世界へ招き入れられる。

重く響く808、ゆったりと進むビート、光沢を帯びたシンセ、映画音楽のように壮大なストリングス。その音響は単なる豪華さではない。成功や権力、余裕や威厳までもが、一つの様式として設計されている。
それは現実を忠実に再現した風景ではない。
「リック・ロス」という人格を中心に組み上げられた、一つの神話なのである。
その神話の面白さは、どこか少し大げさなところにもある。
豪華すぎる車、豪華すぎるホテル、豪華すぎる食事。すべてが現実より一回り大きく、思わず笑みがこぼれるほど誇張されている。
しかし、その誇張は作品を壊さない。
むしろ、「今日はこの世界を楽しもう」と聴き手を自然に受け入れさせる余白になっている。
だからこそ、『テフロン・ドン』には豪華な客演陣が集まる。
ジェイ・Z、カニエ・ウェスト、T.I.、ジェイダキス、ドレイク、グッチ・メイン、スタイルズ・P、ディディといったラッパーに加え、エリカ・バドゥ、ジョン・レジェンド、シーロー・グリーン、ニーヨ、ラファエル・サディークらシンガーまでが参加している。

その顔ぶれは、当時のヒップホップとR&Bの第一線を一枚のアルバムへ集約したようでもある。しかし興味深いのは、その豪華さ自体ではない。彼らがリック・ロスの世界へ入り込み、その舞台だからこそ生まれる表現を響かせている点に、この作品の特異さがある。
彼らはリック・ロスに飲み込まれるわけではない。
それぞれの個性を保ったまま、この世界の住人になる。
とりわけカニエ・ウェストが参加した「ライヴ・ファスト、ダイ・ヤング」は印象的である。

彼のラップは鋭く、自由で、何かが憑依したかのような高揚感を帯びている。それはリック・ロスが築いた巨大な舞台の上だからこそ、自らの表現を思い切り解き放つことができた瞬間のようにも感じられる。ここで主役はカニエではない。リック・ロスが設計した世界そのものが、客演者の表現をさらに解放しているのである。
こうした構造はアルバム全体にも貫かれている。『フリー・メイソン』ではジェイ・Zが威厳ある存在感を示し、『メイバック・ミュージック III』ではT.I.、ジェイダキス、そしてエリカ・バドゥが、それぞれ異なる個性を持ち寄りながら、一つの世界観を支えている。彼らはリック・ロスの世界を飾る装飾ではない。完成された舞台があるからこそ、それぞれが普段以上の存在感を発揮し、一枚のアルバムを豊かな群像劇へと育てているのである。
前章で見た2チェインズとリル・ウェインの『コレグローヴ』では、完成した二人の形式が対話することが創造だった。

しかし『テフロン・ドン』では、まず世界そのものが創造される。
その舞台へ集まった表現者たちが互いに刺激し合い、作品全体をさらに大きなものへ育てていく。
創造とは、自分一人が新しいものを生み出すことだけではない。
人が思わず参加したくなる世界を設計すること。
その舞台の上で、誰もが現実より少し大きな自分になれること。
リック・ロスの創造性は、まさにそこにある。
リック・ロスは本当にギャングだったのか。それとも看守だったのか。
その問いは最後まで消えない。
しかし『テフロン・ドン』を聴き終えた頃には、その答えは不思議と重要ではなくなっている。

私たちが体験していたのは、一人の人間の人生ではない。
リック・ロスという巨大な虚構が、人を惹きつけ、才能を集め、新しい表現を生み出していく瞬間だったのである。
虚構は、現実の反対ではない。
完成された虚構は、一つの世界となる。
そして、その世界は人を招き入れ、新たな創造を生み出す舞台となるのである。

マシュー・バーニー──神話は、世界そのものを編集する
リック・ロスが『テフロン・ドン』で示したのは、一人の人格を巨大な世界へと育て上げる創造だった。 そこでは現実と虚構は対立するものではない。完成された世界観が人を惹きつけ、その舞台に立つ者たちが普段以上の力を発揮する。創造とは、作品を作ることだけではなく、人が思わず参加したくなる世界を設計することでもあった。
彼が行っていたのは、リアルを語ることではなく、リアルを編集して世界を作ることだった。 虚構は現実の反対ではなく、現実を拡張するための編集装置である。 その装置によって、一つの神話的世界が成立していた。

この発想は、現代アートにも鮮やかなかたちで現れている。 その代表的な作家の一人が、マシュー・バーニーである。
バーニーの代表作『クレマスター・サイクル』は、一見すると理解しがたい。 アスリート、神話、生物、工業製品、建築、儀式、性、宗教──無数の要素が入り混じり、一つの巨大な映像世界を形づくっている。 そこには明快な物語はない。 しかし、不思議な説得力がある。

豪華な衣装、異様な建築空間、肉体の変容、祝祭と儀式が次々と現れ、観る者はいつの間にか「バーニーの世界」の住人になってしまう。 その意味では、リック・ロスの世界ともよく似ている。
どちらも現実を忠実に再現しようとはしていない。 むしろ現実を素材として編集し、新しい神話を組み上げているのである。
もちろん、その神話は古代ギリシャの英雄譚ではない。 リック・ロスなら、高級車やシャンパン、葉巻、巨大なボスというイメージが神話になる。 バーニーなら、スポーツ競技、医療器具、ワセリン、動物、企業建築が神話へと姿を変える。
どちらも現代社会に散らばる記号を組み替え、一つの世界として成立させている。 そして、その世界には共通した「過剰さ」がある。

豪華すぎる。 装飾的すぎる。 少し笑ってしまうほど本気である。
しかし、その過剰さこそが作品の生命力になっている。 控えめな表現では到達できない密度が、そこには生まれている。
興味深いのは、この過剰さが決して単なる悪趣味ではないことである。 むしろ、世界を成立させるために必要な熱量なのだ。

神話は現実よりも少し大きくなければならない。 映画は現実よりも派手でなければならない。 リック・ロスの世界が一回り大きな成功者の物語だったように、バーニーの世界もまた、一回り大きな身体と神話によって構築されている。
だからこそ、その世界へ入った人は現実とは異なる感覚を体験する。 ここでは作品そのものよりも、「世界に入ること」が鑑賞になるのである。
現代の創造は、新しい形を発明することだけではない。 人が何度でも訪れたくなる世界をつくること。 そこでは作品は一つの完成品ではなく、世界へ足を踏み入れるための入口となる。

リック・ロスはヒップホップの中で、そのような舞台を築いた。 マシュー・バーニーは現代アートの中で、そのような神話世界を築いた。
創造とは、一枚の絵や一曲の音楽を超えて、一つの宇宙を編集することなのである。

カツカレーカルチャリズム画家列伝82 ~バーニー 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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