優れた作品には二つの姿がある。
ひとつは、形式が完成した姿である。
そこでは表現の方向性が定まり、何を目指していたのかがはっきり見える。作家と作品は一致し、ジャンルは自らの輪郭を獲得する。
しかし、もうひとつの姿がある。
それは形式がまだ存在していない状態である。
プライマル・スクリームの2ndアルバム『Primal Scream』と、エレファントカシマシの2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』を聴くと、私はしばしばそのことを考える。

どちらも決して聴きやすい作品ではない。
地味である。閉じている。どこか居心地が悪い。
後年の代表作に見られる開放感や説得力もまだ十分には現れていない。
それなのに、なぜか耳が離れない。
そこには「ただ事ではない」空気がある。それは完成度の高さではない。むしろ逆である。
作品の内部に、まだ解決されていない問題が残っているのである。

制作を続けていると、ときに作品から「違う」と突き返されることがある。
何が正しいのかは分からない。だが、今ある形では足りない。その感覚だけが妙にはっきりしている。
そして作家は前へ進むというより、その感覚から逃げられなくなる。
プライマル・スクリームの2ndにも、エレファントカシマシの2ndにも、そうした逃げ場のなさが刻まれている。
そこではまだ答えが見つかっていない。しかし問いだけは確実に存在している。
後から振り返れば、プライマル・スクリームは『スクリーマデカ』へ向かう。
ダンスミュージック、ダブ、サイケデリア、ロックを横断しながら独自の接続を生み出していく。

エレファントカシマシもまた、後年には宮本浩次という稀有な表現者を中心に独自の世界を築いていく。
しかし2ndアルバムの時点では、その未来はまだ存在していない。
あるのは圧力だけである。
何かにならなければならない。しかし何になるべきかは分からない。その不安定さが作品全体を包んでいる。

だから私たちは、この種の作品を前にすると能動的になる。
完成した作品を鑑賞しているのではない。
形成されつつあるものを見ているからである。
そこには複数の未来が同時に存在している。
成功も失敗も、飛躍も停滞も、まだ区別されていない。
リスナーはその状態を観測する。
そして、その観測行為そのものが作品体験の一部になる。

振り返れば、モダニズムは前進を求めた。
純化し、強度を高め、本質へ近づこうとした。
その結果、多くの偉大な作品が生まれた。
しかし、純化はときに表現を一本の道へ追い込む。
強度は増すが、折れやすくもなる。
だから創造において本当に重要なのは、完成された形式だけではないのかもしれない。
むしろ、形式が要求されている状態そのものに価値がある。
まだ形になっていない違和感。まだ名前を持たない衝動。まだ見つかっていない回路。
そうしたものが最もむき出しになるのが、この種の過渡期の作品である。

フィニアス・ニューボーンやビッグLの作品には、ジャンルが自らの姿を獲得した瞬間が記録されていた。
一方で、プライマル・スクリームの2ndアルバムとエレファントカシマシの2ndアルバムには、その姿が生まれる前の時間が記録されている。
完成した形式は美しい。
しかし、形式がまだ存在しない場所には、別の種類のリアルがある。
それは創造が進行形で存在しているという事実そのものなのである。
河原温 ―― 形式の前夜
河原温といえば、多くの人はデイト・ペインティングを思い浮かべるだろう。

画面中央に記された日付。
均質な色面。
徹底して排除された物語性。
そこには作者の感情も、社会への直接的なメッセージも見当たらない。

作品は驚くほど透明であり、同時に揺るぎない。
まるで絵画という形式そのものが静かに存在しているかのようである。
しかし、その河原温に至る前の作品を見ると、まったく異なる風景が広がっている。

初期作品には不穏な人物像や密室的な空間が現れる。
そこには不安があり、暴力があり、説明のつかない緊張感がある。
後年の静けさからは想像しにくい世界である。

だが、その落差こそが興味深い。
私たちはしばしば完成された様式から作家を理解しようとする。
しかし創造は完成形から始まるわけではない。

むしろ、その形式が見つかる前の時間にこそ、作家の切実さが露出する。
河原温の初期作品を見ていると、そこには「何かにならなければならない」という圧力が感じられる。

何を描くのか。 何を作品とするのか。 どのように世界と関わるのか。
その答えはまだ存在していない。
だから作品は不安定である。
しかし、その不安定さの中には独特のリアルがある。
それは完成された作品には残りにくい種類のリアルである。

後年のデイト・ペインティングはあまりにも明晰だ。
形式は確立され、作品は自らの輪郭を獲得している。
一方、初期作品にはまだ輪郭がない。
その代わりに、切迫感がある。

作品そのものが何かを探しているのである。
この状態は、ときに過渡期の音楽作品を思わせる。
後の代表作を知っているからこそ、私たちはその未整理さに戸惑う。
なぜこんな遠回りをしているのか。
なぜこんなに重苦しいのか。

しかし後から振り返れば、その時間は決して無駄ではなかったことが分かる。
むしろ、その迷いや違和感があったからこそ、新しい形式が生まれたのである。
創造とは必ずしも前進ではない。
正しい答えへ向かう直線運動でもない。
ときには「こうではない」と否定され続ける時間が必要になる。


河原温の初期作品には、その時間が刻まれている。
そこではまだデイト・ペインティングは存在していない。
しかし、その不在こそが重要なのである。
なぜなら、その空白の中にこそ、後の河原温を生み出す圧力が宿っているからだ。
完成した形式は美しい。

だが、形式がまだ存在していない場所には別の価値がある。
河原温の初期作品は、そのことを静かに教えてくれる。
それは後の代表作の準備段階ではない。
むしろ、創造そのものが進行形で存在している現場なのである。


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