UA『11』、エリカ・バドゥ『Baduizm』、アウトキャスト『Aquemini』― 身体の再編

音楽

 深度・浮遊・拡散としてのリアル

軽やかさが文化として定着したあと、音楽は再び身体へと接続し始める。ただしそれは、かつてのように感情を増幅し、自己を強く打ち出すかたちではない。むしろ、軽やかさを通過したあとに、身体をどのように扱い直すかという問題として現れる。

その多方向的な展開を示すのが、UAの『11』、エリカ・バドゥ(Erykah Badu)の『バディズム(Baduizm)』、そしてアウトキャスト(OutKast)の『アクエミニ(Aquemini)』である。

出典:Artpedia/UA「11」
出典:Artpedia/エリカ・バドゥ「バディズム」
出典:Artpedia/アウトキャスト「アクエミニ」

この三者に共通するのは、身体性を明確に持ちながら、それを直接的なドラマへと還元しない点にある。感情や存在は確かにそこにあるが、それはもはや強く主張されるものではなく、異なるかたちで提示される。

この変化はしばしば「70年代的」とも感じられる。たしかにソウルやファンク、ダブを思わせる揺らぎや温度がある。しかしここで起きているのは単なる回帰ではない。リズムはわずかに揺れ、声は拍から自由になり、時間は均質なグリッドから解放される。

言い換えれば、

これは70年代の再現ではなく、90年代的な構造を通過したあとの、編集された身体の回帰である。

まず、『11』におけるUAの声は、揺らぐ音響の中に静かに沈み込みながら、確かな存在を保つ。そこでは硬質な打ち込み、柔らかなパーカッション、残響を含んだ音の層が、それぞれ異なる質感を持ちながら重なり合っている。

出典:Artpedia/UA

重要なのは、リズムが単一の拍として強く支配するのではなく、複数の時間感覚として空間に広がっている点である。UAの声は、その層のあいだを滑らかに横断しながら存在することで、音楽全体に独特の浮遊感と身体感覚を与えている。

そこでは実存は強く語られるのではなく、静かに置かれるものとなる。身体は内側へと向かい、深度として提示される。

一方、『バディズム』におけるエリカ・バドゥの身体は、グルーヴの中に浮遊する。ミニマルに反復するリズムの上で、声は語るように揺れ、拍に縛られず滑り込む。強く歌い上げることなく、しかし確かな存在感を持つその声は、音の空間に溶け込みながら漂い続ける。

出典:Artpedia/エリカ・バドゥ

ここで重要なのは、その漂いが単なるスタイルではなく、「どこに身を置くのか」という感覚そのものと結びついている点である。ブラックミュージックが長く抱えてきた、定着しきらない身体感覚――すなわちアフロディアスポラ的な感性は、ここで直接的な主張ではなく、声の揺らぎや間合いとして現れている。

実存はもはや強く証明されるのではない。むしろ、関係や空間の中を漂いながら、そのつど仮設的に立ち上がるものとなる。実存はここで、固定された中心ではなく、関係の中へと開かれる。

そして、『アクエミニ』におけるアウトキャストは、その定着しきらない身体を、さらに別の方向へと展開する。ここではまず音そのものが均一ではない。乾いたヒップホップのビートに、湿度を帯びたベースラインやオルガン、歪んだギターが差し込まれ、質感が曲ごとに変化する。複数の音の層は完全には統一されず、わずかに“よれ”ながら共存している。

出典:Artpedia/アウトキャスト

ラップもまた、ビートに対してぴたりと収まるのではなく、早口になったり遅れたりしながら、流動的に乗っていく。そこでは身体は、一定の重心を持つ存在というより、複数のリズムや質感のあいだを移動し続けるものとして現れる。

さらに重要なのは、声の扱いである。フックではソウル的に歌われ、ヴァースではラップとして語られ、ときにキャラクターのように変形する。ひとつの身体に統一されるのではなく、複数の声が入れ替わることで、存在そのものが分散していく。

ここでは身体は固定された自己ではなく、分解され、組み替えられ、演じられるものとなる。実存はひとつに収束するのではなく、拡散し、複数の姿を取りながら現れる。

出典:Artpedia/UA

身体は、証明するものではなく、配置されるものへと変わったのである。

UAにおいては深度として、エリカ・バドゥにおいては浮遊として、アウトキャストにおいては拡散として――身体はそれぞれ異なる方向へ開かれていく。

しかしいずれの場合も、身体は過剰に語られることなく、関係や空間の中で成立している。

言い換えれば、“リアルは、単一の実存から、多方向に展開する存在のあり方へと移行する”のである。

出典:Artpedia/エリカ・バドゥ

このとき重要なのは、どの方向も“深刻に戻らない”という点である。身体は回復されるが、それは重さや悲劇性を伴うものではない。むしろ、軽やかさを保ったまま、それぞれのかたちで再配置される。

ここにおいて、身体はひとつの中心ではなく、複数の可能性を持つ場となる。

深く沈むことも、漂うことも、拡がることもできる。

多方向に開かれた身体としてのリアル。

それが、この時代に現れた新しい実存のかたちなのである。

出典:Artpedia/アウトキャスト

分解される身体 ― 沈む・漂う・変形するイメージ
~ タイマンス、ペイトン、バーニー

音楽において、UA、エリカ・バドゥ、アウトキャストが示したのは、軽やかさを通過した後に回復される身体が、もはやひとつのかたちに収束しないという事態であった。身体は、深く沈み、軽やかに漂い、あるいは拡張されていく。それは統一された実存ではなく、複数の方向へと分岐する存在として現れる。

この変化は、美術においても同様に確認できる。ただしここで現れる身体は、物語や象徴としてではなく、あくまで画面や空間の中に置かれた存在として扱われる。

たとえば、リュック・タイマンス(Luc Tuymans)の絵画における人物は、極度に抑制された色彩とぼやけた輪郭の中で描かれる。

出典:Artpedia/リュック・タイマンス「国務長官」

そこには確かに身体が存在しているが、その感情や内面はほとんど語られない。出来事や歴史の痕跡を含みながらも、それは強く提示されることなく、画面の中に静かに沈んでいる。
ここでの身体は、自己を主張するものではなく、沈黙の中に置かれた存在である。

出典:Artpedia/リュック・タイマンス「ビューの診断I」

一方、エリザベス・ペイトン(Elizabeth Peyton)の人物像は、軽やかな筆致と親密な距離感の中で描かれる。ロックスターや友人といった対象は、特別なドラマを背負うことなく、日常の延長として提示される。

出典:Artpedia/エリザベス・ペイトン「カート・コバーン」

そこにある身体は強調されることなく、しかし確かに存在し、画面の空気の中に溶け込んでいる。
それは固定された像ではなく、関係性の中で漂うように存在する身体である。

出典:Artpedia/エリザベス・ペイトン「ダニエルのベットの上のトニー」

そして、マシュー・バーニー(Matthew Barney)において、身体はさらに異なる方向へと展開する。彫刻や映像、パフォーマンスを横断する彼の作品では、身体は拘束され、変形され、別の存在へと変換されていく。そこでは身体は安定した自己ではなく、操作されうる素材であり、複数の状態を取りうるものとして扱われる。
ここでの身体は、固定されることなく、変形し続ける存在である。

出典:Artpedia/マシュー・バーニー「クレマスターⅢ」

この三者に共通するのは、身体が単一の意味や実存へと還元されていない点である。かつてのように身体が内面の表現や物語の中心となるのではなく、それぞれ異なる位置に置かれ、異なるあり方で提示される。

言い換えれば、身体は、ひとつの真実を示すものではなく、複数の状態を持つ場へと変わったのである。

出典:Artpedia/マシュー・バーニー「クレマスターⅢ」

沈む身体、漂う身体、変形する身体。それらは互いに統合されることなく、並存している。

ここにおいて重要なのは、これらの身体がいずれも過剰にドラマ化されていない点である。強い感情や物語を背負うのではなく、あくまで配置されたものとして存在している。その結果、身体はより直接的でありながら、同時に距離を保った存在となる。それは、自己を証明するための身体ではない。
また、単なる表象としての身体でもない。

“配置され、変化し続ける身体としてのリアル”

それが、この時代の美術において現れている、新しい存在のかたちなのだ。

出典:Artpedia/マシュー・バーニー「スカルプチャー」

カツカレーカルチャリズム画家列伝82 ~バーニー 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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