
ジャムロックの位置
Damian Marleyは、レゲエの象徴的存在である ボブ・マーリー を父に持つアーティストであり、ダンスホール以降の感覚とヒップホップ的な要素を取り込みながら、現代的なレゲエのあり方を更新してきた存在である。

2005年に発表されたアルバム『ウェルカム・トゥ・ジャムロック』は、その代表作のひとつであり、ジャマイカの社会的現実を鋭く描き出すと同時に、レゲエという音楽の枠組み自体を拡張する試みとして位置づけられる。

このアルバムを聴くとき、まず気づくのは、それが単一のレゲエ表現に収まっていないという点だろう。
ワンドロップのリズムや裏打ちのギターが前面に出たトラックも、このアルバムには確かに存在する。たとえば「コンフロンテイション」や「ゼア・フォー・ユー」では、レゲエの伝統的な骨格が比較的明瞭に提示される。

しかしそれと並行するかたちで、タイトル曲である「ウェルカム・トゥ・ジャムロック」は大きく異なる方向を示している。ここではビートが削ぎ落とされ、ヒップホップに近い硬さとミニマルな構造が前景化する。裏打ちやギターのカッティングといった記号的な要素は後退し、空間はむしろ冷たく整理されている。
それでもこの曲は、確かにレゲエとして聴こえる。
ここで起きているのは、レゲエという音楽の「本体」がどこにあるのかを問い直す運動である。
レゲエは、その特徴が明確であるがゆえに、しばしば記号として流通してきた。
ザ・クラッシュや ザ・ポリスが示したように、裏打ちやカッティングといった要素は他ジャンルからも引用しやすく、「それっぽさ」を生み出す装置として機能する。


しかし同時にレゲエは、ラスタファリズムや共同体の意識と結びつき、内部からは容易に逸脱しにくい構造も持っている。
つまり、外からは使いやすく、内からは壊しにくいという両義性を抱えている。
この点でしばしば語られるのが、異文化交流による拡張である。
たとえば ナズとの協働や、スーパーヘヴィ、スヌープ・ライオンといった試みは、ジャンルの外へと意識的に開かれていく運動として理解できる。



しかしその一方で、このような「外への越境」は、ときに音楽を均質化し、「ワールドミュージック」として整えすぎてしまう側面も持っている。
それに対してジャムロックで起きているのは、やや異なる方向の運動である。
ここでは外へ出て混ぜるのではなく、レゲエの内部にすでに含まれている混成性が掘り起こされている。

レゲエ自体が、アフリカ系のリズムやカリブのローカル文化、さらにはアメリカの音楽的要素の交差の中から生まれたものである以上、その内部にはもともと越境的な構造が潜んでいる。
ジャムロックは、それを改めて可視化し、形式から切り離すことで再配置していく。
その中心にあるのが、ダミアンの声である。
トースティングとラップを横断するフロウ、低くざらついた声質、そして社会的現実を引き受ける語りの視点。これらが、楽器の形式に代わってレゲエ性を担っている。

さらに「ロード・トゥ・ザイオン」のような楽曲では、ヒップホップ的なビートとレゲエ的な感覚が対立することなく共存している。
ここではジャンルは衝突するのではなく、最初から同一平面上に配置されるものとして扱われている。
そして同様のことは、「オール・ナイト」において聴かれる、ローリン・ヒルとされるボーカルにも見て取れる。ソウル、ヒップホップ、そしてカリブ的感覚を横断してきた彼女の声は、異文化として接続されるのではなく、すでに共有された混成の地平において自然に重なり合う。
ここには、外への越境ではなく、「内在する混成同士の共鳴」とでも呼ぶべき状態が現れている。

このように見ていくと、レゲエとは固定された形式ではなく、解体と再構成を繰り返す中で維持される運動体であることがわかる。
記号として定着した要素は、外部から引用され、内部から再編され、そのたびに支持と反発を生みながら更新されていく。
そしてこの更新を可能にする条件として、ダミアンの位置は決定的である。
彼はレゲエの内部に属する存在として、その構造を十分に引き受けている。
そのため彼の逸脱は、単なる消費や誤用ではなく、内側からの拡張として受け取られやすい。

ここで行われているのは、「正しいレゲエ」を提示することではない。
むしろ内側にその重みを保持したまま、外側の形式を解体し、レゲエが成立しうる範囲そのものを押し広げていく試みである。
ジャムロックは、レゲエを壊すのではなく、レゲエがどこまで壊れてもなおレゲエでありうるのかを測る。
そしてそれは、外へ向かう越境ではなく、内在する混成を顕在化させることによって達成されている。
その運動こそが、このアルバムに固有の躍動を生み出している。

混成の運動としての美術 ― ポルケを軸に
『ウェルカム・トゥ・ジャムロック』において見たのは、レゲエという形式が一度分解され、その成立条件が問い直される運動であった。
そこでは外部との単純な混合ではなく、内部にすでに含まれている混成性が掘り起こされ、別の形で再配置されていた。
このような動きは、美術においても見出すことができる。
とりわけシグマー・ポルケの実践は、その構造をよく示している。

ポルケは、印刷物や写真、絵画的手法、さらには化学的な素材までも横断しながら、イメージを固定されたものとしてではなく、揺れ続けるものとして扱う。
そこでは既存の様式や記号は明確な意味を保持することなく、ずれ、にじみ、複数のレイヤーのあいだで不安定に浮遊する。

重要なのは、この不安定さが単なる混合の結果ではないという点である。
むしろポルケは、すでに流通し、記号化されたイメージをあえて引き受けたうえで、それが安定した意味へと収束することを回避する。
言い換えれば、形式を壊すのではなく、形式が成立しきらない状態を持続させるのである。

この態度は、ジャムロックにおけるレゲエの扱いと深く呼応している。
レゲエの記号的な要素は一度提示され、共有された前提として受け入れられる。
しかしその後、それは削ぎ落とされ、ずらされ、別の配置へと置き換えられることで、固定された形式ではなく、揺れ続ける状態として再び立ち現れる。

ここで参照されうるのが、ゲルハルト・リヒターである。
リヒターは、写真、抽象、具象といった複数の様式を横断し、それらを等価に並置することで、絵画の形式を相対化してきた。
この点において彼は、混成が前提となった後の構造を、きわめて明晰に提示している。

しかしリヒターの仕事が、複数の形式を整理し、均衡のうちに配置するものであるとすれば、ポルケはそれをさらに不安定な領域へと押し広げる。
そこでは形式は並置されるだけでなく、互いに干渉し、崩れ、意味を保ちきれないまま運動し続ける。

したがってここで問題となっているのは、混成そのものではない。
むしろ、混成がいかに扱われるか、すなわちそれが均質な構造として整えられるのか、それとも不安定な状態として持続されるのかという差異である。

ポルケが示すのは、後者の可能性である。
それは、記号や形式を否定することなく、それらが完全には機能しきらない状態を引き受けることで、表現を閉じることなく開き続ける運動である。 そしてジャムロックもまた、そのような運動のうちにある。
レゲエを定義するのではなく、レゲエが成立しうる範囲を揺らし続けること。
その持続こそが、形式を超えた広がりと、なお失われない躍動を生み出している。
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