漂流する身体 ─ フランチェスコ・クレメンテ ─ 絵画の「いやおうなさ」をめぐって
絵画回帰の内部で
1970年代末、イタリア美術はひとつの転換点を迎えていた。コンセプチュアル・アートやアルテ・ポーヴェラによる急進的実践を経た後、再び絵画が前景化する動きが現れる。それを理論的に提示したのがアキーレ・ボニート・オリーヴァであり、彼が名付けたトランスアヴァンギャルディアは、様式の横断と歴史の再引用を肯定する潮流として国際的に認知された。

その中核の一人とされたのがフランチェスコ・クレメンテである。しかし彼の位置は、同時代の他の作家と微妙に異なる。トランスアヴァンギャルディアがしばしば「絵画の復活」として語られるとき、そこには主体の再強化やイメージの回復が想定される。だがクレメンテの画面は、回復という語に馴染まない。そこにあるのは、確信よりも揺らぎであり、再建よりも漂流である。
彼の人物像は断定的ではない。輪郭は溶け、身体は誇張されながらも不安定で、視線は固定されない。色彩は激しく主張するのではなく、滲み、重なり、柔らかく広がる。画面は観者を拒絶せず、むしろ静かに吸収する。その吸収性は、対抗や宣言とは異なる態度を示している。

信じないという制作倫理
クレメンテの作品に接したとき、落書きのように見えるという印象を抱くことは自然である。線はためらいを含み、構図は安定を避け、人物はしばしば戯画的に歪む。だがそれは技巧の不足ではない。完成や確信を拒む態度が、意識的に保持されているのである。
彼は絵画の絶対性を信じていない。
主体の統一を信じていない。
物語の整合性を信じていない。

しかし彼は、描くことをやめない。この逆説が重要である。信じないが、放棄しない。確信を持てないが、制作を継続する。この姿勢は、シニカルな距離とも異なる。むしろ、確信を失った時代において制作を持続するための倫理に近い。
この倫理は軽やかに見えるが、決して軽薄ではない。漂流しているようでいて、実はきわめて切実である。

色彩と吸収する画面
クレメンテの色彩は流動的である。水彩、テンペラ、フレスコなどの技法を通じて、彼は色を固着させず、層を重ねながらも決定的な境界を作らない。色面は視線を跳ね返さず、静かに受け入れる。そこでは絵画が壁のように立ちはだかるのではなく、空気のように広がる。
この吸収する画面は、強い対抗性を持たない。だがそれは無力という意味ではない。むしろ、確信を誇示しない強度がある。観者は挑発されるのではなく、ゆっくりと引き込まれる。時間が緩やかに延び、視線は固定されず、漂う。
現代においてしばしば見られる「無垢」を演出する画面は、純度や透明性を意図的に強調することがある。しかしクレメンテの柔らかさは演出というより、確信の欠如をそのまま残す態度に近い。純粋さを装うのではなく、揺らぎを処理しきらないまま提示する。

戦略と逃れられなさのあいだ
クレメンテが身体を描くことは、歴史的には戦略的選択と見ることもできる。アルテ・ポーヴェラが物質や行為を通して表象を解体した後に、再びイメージとして身体を提示することは、確かに反転である。絵画回帰そのものが、理論的緊張への応答だった。
しかし彼の身体は、戦略としてはあまりにも脆い。
英雄的でもなく、記号的でもなく、確立もしていない。崩れ、裂け、溶け、過剰に露出している。もし純粋な対抗戦略であれば、より強い身体が描かれたはずである。だが彼は、身体を強化しない。
ここで重要なのは、「肯定」という語を避けることである。クレメンテは身体を積極的に肯定したというより、身体から逃れられなかったのではないか。
理念が疲労し、制度が安定し、市場が拡張する中で、なお描くとすれば何が残るのか。理論は消える。様式は引用可能になる。だが身体は消去できない。主体が揺らいでも、身体は残る。
したがって彼の身体性は、「選択された主題」というより、「回避不能な条件」として現れる。描く以上、身体は抱え込まれる。その抱え込みは誇示ではなく、仕方なさに近い。いやおうなくそうするしかなかった、という感覚である。

身体の処理不能性
クレメンテの身体は、解決されない。確立されない。強く統合されることもない。それは処理不能なまま画面に置かれる。色彩に溶け、輪郭に揺らぎ、主体の不確かさをそのまま保持する。
この処理不能性こそが、彼の核心である。
描くことを選ぶ以上、身体は前提となる。しかしその身体は歴史や文化や市場の重層性を背負っている。純粋な身体など存在しない。にもかかわらず、それを扱わざるを得ない。この構造は、現在においても変わらない。
むしろ現在はさらに過酷である。イメージは氾濫し、引用は即座に消費される。そうした状況で描くことを選ぶならば、「かかえてなおかつ」という構造はより強くなる。身体もまた、避けられない前提として残る。
クレメンテは、この前提を強く解決しようとしなかった。漂いながら、溶かしながら、確定を避けながら提示した。その弱さは、敗北ではない。処理不能性をそのまま残す勇気である。

カツカレーカルチャリズムへの接続
多様な文化要素が混在し、軽やかに横断される現代的状況を仮にカツカレーカルチャリズムと呼ぶならば、クレメンテはその先駆的感覚を内包している。異文化の引用、様式の混合、主体の分散は、今日では広く共有されている。
しかし決定的な差異がある。
今日の混淆はしばしば均質化を伴う。すべてが等価に並び、衝突が中和される。対立も緊張も、スタイルとして処理される。それに対しクレメンテの混合は、均質ではない。漂流しているが、どこかに処理不能な不安が残る。
彼の画面は吸収するが、完全には溶けきらない。柔らかさの内部に、解決されない身体がある。この残余こそが、カツカレーカルチャリズム的状況と決定的に異なる。
彼は混線を肯定したのではなく、混線から逃れられなかった。
彼は身体を掲げたのではなく、身体を抱え込んだ。
そこにあるのは、強い宣言ではなく、持続である。

現在への開口部
クレメンテを歴史的作家として閉じることは容易である。しかし彼の問題系は終わっていない。描くことを選ぶ以上、身体はいやおうなく前提となる。その身体を強化するのか、解体するのか、溶解させるのか。どの選択も、歴史を背負う。
クレメンテは、その問いを解決しなかった。解決せずに抱えた。その態度は、確信なき時代における制作のひとつのかたちである。
そしてこの抱え込みのあり方は、次に扱われるであろう他の作家との比較によって、さらに鮮明になる。身体を物質化し、断片化し、空間に突き出す態度と、溶解させ、漂わせる態度。その差異は、トランスアヴァンギャルディア内部の亀裂を照らし出すだろう。


出典:Artpedia/フランチェスコ・クレメンテ

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