
完成以前の幸福
ロック史において「セカンドアルバム」はしばしば試金石とされる。デビュー作の衝動が偶然ではなかったことを証明する場であり、同時に作家性の輪郭が定まり始める地点でもある。しかし、そこには別の局面も存在する。完成された様式へと収束する直前、創造性がもっとも拡張的で、不安定で、そして幸福に満ちている時間である。
1969年に発表された『Led Zeppelin II』と、2001年に発表された『Origin of Symmetry』は、三十年以上の時代差を持ちながら、創造の力学において驚くほど似た局面を共有している。両作は完成度という尺度だけで語ることはできない。むしろそこに響いているのは、様式が確立する前の遠心力であり、音楽が自己のサイズを急激に拡張しつつある瞬間の震動である。
未開の拡張 ― ツェッペリンの1969年

『レッド・ツェッペリンII』はツアーの合間に断続的に録音された。複数のスタジオを渡り歩きながら制作されたその過程は、アルバムの音響構造に直接反映されている。ブルースを基盤としながらも、リフは過剰に増幅され、サイケデリックな音響処理は楽曲内部で空間を拡張する。音は単に演奏されているのではなく、録音の中で巨大化していく。
この時代のロックは、まだ制度化されていない領域だった。ハードロックは確立したジャンルではなく、スタジオ技術も実験の只中にあった。ツェッペリンは既存のブルースを再演するのではなく、そこに重量と奥行きを与え、音響的建築へと変容させた。重要なのは、その拡張が完全に制御されていないことである。リフは構造を持ちながらも暴力的であり、即興的なパートは楽曲の枠を押し広げる。アルバムは完成品というより、運動の記録に近い。
後年の作品が神話的均衡を獲得するのに対し、このセカンドは均衡以前の震動を保っている。音楽がまだ自らの巨大さを説明できない段階にあるという意味で、ここには創造の幸福が宿っている。
既知の再構築 ― ミューズの2001年

『オリジン・オヴ・シンメトリー』が置かれていた状況はまったく異なる。二十一世紀初頭、ロックはすでに多くの歴史を背負っていた。プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、オルタナティヴ、電子音響、クラシック的要素――参照可能な語彙は出揃っていたと言ってよい。ミューズの拡張は、未開の地を踏破するというより、既存の要素を再編し、極端にまで肥大化させる方向へ向かう。
しかしその肥大化は、計算された安定ではない。キーボードは劇的に響き、ヴォーカルは過剰なまでに引き伸ばされ、楽曲は唐突な展開を含む。構成の精度は高まりながらも、なお制御しきれない熱量が残る。バンドは自らのスケールを拡大しようとし、その拡大の速度に身体が追いついていない。
ここで重要なのは、「最適化」と「不安定さ」が同時に存在している点である。歴史を背負った時代において、彼らは過去の様式を横断しながら、自らの音楽を巨大な演劇空間へと押し広げる。完成へ向かう直前の、過剰な遠心力。そのスリルが、聴き手に「今まさに立ち上がっている」という感覚を与える。
構造の生成と遠心力
両アルバムに共通するのは、構造が固定される前の運動である。ファーストアルバムが縦方向の突破だとすれば、セカンドは横方向への拡張であり、奥行きの獲得である。音楽は平面から立体へと変わる。その変化の最中にあるため、全体像はまだ霧の中にある。
この状態は、不安定さを伴う。しかしその不安定さこそが創造のスリルを生む。完成された様式は求心的であるのに対し、生成中の様式は遠心的である。遠心力が強いとき、作品は危ういが、生きている。
ここに、文化理論としてのカツカレーカルチャリズムが接続可能である。この理論が掲げる多文化性、境界横断性、余剰性、美味しさ(映え)の幸福は、まさにセカンドアルバムの拡張局面に見いだされる。ツェッペリンはブルース、フォーク、サイケデリアを横断し、ミューズはロック、クラシック、電子音楽を横断する。ジャンルは混交し、境界は揺らぐ。その結果として生じる余剰 ― 必要以上の誇張、過剰な音響、肥大化した構造 ― が、聴取体験を祝祭的なものへと変える。
カツカレーが複数の文化要素を重ねながら新たな幸福を生み出すように、両アルバムもまた文化的語彙を重層化し、単なる折衷ではなく拡張的な空間を創出する。重要なのは、そこに理論的整理よりも先に感覚的祝祭があることだ。

過渡期の価値
後年の作品がより充実しているという評価は妥当であろう。しかし、創造性の観点から見れば、様式が定まる直前の時期には独自の価値がある。それは可能性が閉じていない時間であり、未来がまだ縮小していない時間である。
『Led Zeppelin II』と『Origin of Symmetry』は、いずれもバンドが「何者か」になる途中に位置する。自己定義が完了する前、拡張の方向がまだ一つに収束していない。その状態は短命であるがゆえに、強い輝きを放つ。
創造における幸福とは、完成の安定ではなく、拡張の運動そのものかもしれない。両作が今なお鮮烈に響くのは、その運動が音の中に保存されているからである。そこでは音楽は既成の形式を再現するのではなく、形式を生み出しつつある。

拡張の瞬間としてのセカンド
三十年の時間差を超えて、二つのセカンドアルバムは創造の力学を共有する。未開の領域を切り拓く拡張と、既知の語彙を再編する拡張。方向は異なるが、どちらも遠心力に満ちている。
それは、ヴィジョンがまだ完全には輪郭を持たない瞬間の音楽である。空間はもわりと立ち上がり、像は確定せず、しかし確実に巨大化している。その不安定さこそが、創造の幸福を証明している。
セカンドアルバムはしばしば通過点とみなされる。だが、創造性の拡張という観点から見れば、そこは最も祝祭的な地点である。音楽が自己の未来をまだ知らないまま、最大の遠心力で回転している。その回転の軌跡が、歴史の中で名盤として記憶されるのである。

補章 立ち上がるヴィジョン ― マッタとクーニングの累次
ロックにおけるセカンドアルバムの拡張局面を絵画史に照射するならば、そこには様式確立以前の「累次」の時間が見えてくる。累次とは、完成された体系に至る前、試みが重なり、修正され、増幅されながら、方向が定まりきらないまま前進する局面である。その生成の層において、ヴィジョンは一挙に出現するのではなく、もわりと立ち上がる。
ロベルト・マッタの1930年代後半の仕事は、その典型である。彼の描く心理的空間は、理論化されたシュルレアリスムの図像体系よりも先に、空間そのものを生成の場として提示した。背景は深い霧のように揺らぎ、その内部から有機的とも機械的ともつかぬ形態が浮上する。像は明確な象徴として固定されるのではなく、空間の圧力の中で発生し、変形し、消失する。マッタにおいて重要なのは、線や形態それ自体よりも、思考が発生する“場”の構築である。各作品は完成された宇宙像ではなく、心理的・宇宙的空間を拡張するための累次的試行として位置づけられる。そこでは画面全体が振動し、ヴィジョンは確定する前の厚みを帯びる。

同様に、ウィレム・デ・クーニングの1940年代末から50年代初頭にかけての制作も、様式化以前の累次の運動として理解できる。抽象と具象がせめぎ合う画面では、人物は現れかけては崩れ、空間は構築されかけては溶解する。筆触は決定を拒み、絵具は塗り重ねられ、削られ、再び描き込まれる。完成された抽象表現主義の様式から見れば不安定であるが、その不安定さこそがスケール拡張の証である。クーニングの画面は、マッタが開いた心理的空間の可能性を引き受けつつ、より身体的なエネルギーへと転換する。そこでは形態は確定せず、空間は遠心力を帯びたまま持続する。

マッタとクーニングの累次的局面に共通するのは、ヴィジョンが「結果」としてではなく「空間的過程」として存在している点である。作品は終着点ではなく、生成の軌跡である。そこでは作家自身も全体像を把握しきれていない。だが、その把握不能性は欠如ではない。むしろ可能性がまだ閉じていないことの証左である。空間が先に震え、形態が後から追いつく。その時間差こそが、立ち上がりの厚みを生む。
ロックのセカンドアルバムが持つ拡張の幸福は、この累次の時間に重なる。文化的語彙を横断し、余剰を抱え込みながら、新たな空間を生み出す運動は、カツカレーカルチャリズムがいう多文化性と境界横断性の実践的形態でもある。複数の要素が混在し、定義が遅延し、構造が生成の途上にあるとき、創造はもっとも祝祭的になる。マッタの心理空間も、クーニングの振動する画面も、完成された様式の提示ではなく、空間が拡張していくその過程を保存している。
マッタとクーニングの過渡期は、後年の完成形よりも不安定である。しかしその不安定さの中でこそ、ヴィジョンは厚みを持って立ち上がる。累次の運動が重なり合う場において、芸術は固定された様式を超え、拡張の瞬間そのものを保存するのである。




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