フランシス・ベーコン(1909–1992、アイルランド/イギリス)
消えない肉体 ― 個人の時代に残された身体
第二次世界大戦後、西側社会はかつてない繁栄を迎えた。
個人の自由は拡大し、多くの人々が自らの人生を選択できるようになる。人間は社会の部品ではなく、一人ひとりが尊重される存在として考えられるようになった。



しかし、どれほど社会が進歩しても、人間の身体そのものは変わらない。
老い、傷つき、苦しみ、そして死ぬ。
フランシス・ベーコンの絵画は、その逃れられない事実を正面から見つめ続けた。
1944年の《十字架の下の人物のための3つの習作》は、戦争がまだ終わらない時期に発表された作品である。三連画に描かれた異形の生物は、人間にも動物にも見える。口を開き、身をよじり、不穏な空間に置かれたその姿は、戦争によって露わになった人間の暴力性そのもののようにも見える。そこには英雄も理想も存在しない。ただ生々しい生命の不安だけがある。

ベーコンの代表作《ベラスケスの教皇インノケンティウス10世像による習作》(1953)では、その感覚がさらに純化される。画面中央の教皇は玉座に座りながら、まるで悲鳴を上げているように見える。権威の象徴であるはずの人物は、もはや威厳を失い、一個の傷つきやすい肉体へと還元されている。見ていると、叫び声が聞こえるというより、叫び続けることしかできない存在の孤独が伝わってくる。


今日の私たちは、ベーコンの絵にどこか見覚えのある感覚を覚えるかもしれない。歪み、融解し、異形へと変化する身体は、後のホラー映画やゲームに登場するクリーチャーを思わせるからである。
しかしベーコンが描こうとしたのは怪物ではない。彼が見つめていたのはあくまで人間だった。人間を正直に描こうとした結果、その姿が異形へと変形してしまったのである。


その意味では、巨大な怪獣や異形の生命体に惹かれる日本の視覚文化ともどこかで響き合っている。
どちらにも人間という形を超えた何かへの想像力がある。ただし怪獣がしばしば力や変身への夢を託されるのに対し、ベーコンの変形は身体の脆さや存在の不安を露わにする。

そこには抽象表現主義が語った自由な主体の高揚感はない。むしろ人間という存在が、自らの身体から決して逃れられないことが描かれている。
重要なのは、ベーコンが戦争や政治を直接描いたわけではないことである。
彼が描いたのはもっと根源的なものだった。

人間が生きるということそのものに潜む不安、孤独、暴力性である。
そのため彼の人物像は特定の誰かではない。
むしろ現代社会に生きるあらゆる個人の肖像として見ることができる。
近代は個人を解放した。
戦後社会はその個人に豊かさと権利を与えた。

しかしベーコンは、その先になお残り続ける身体を見つめた。
自由も進歩も、死や苦痛を消し去ることはできない。
その歪んだ身体は、後の怪獣やクリーチャーのようにも見える。しかしそこにいるのは怪物ではない。私たち自身である。 ベーコンは、近代が生み出した「自由な個人」と、人類が太古から抱え続けてきた「肉体」を同じ皿の上に盛りつけたのである。

カツカレーカルチャリズム画家列伝40 ~フランシス・ベーコン 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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