ジュールズ・オリツキー(1922–2007、アメリカ)
人工的な霧をつくる
ジュールズ・オリツキーの絵を見ると、まず不思議な感じがする。
色がある。
しかし、その色がどこにあるのか、よくわからない。
赤からピンクへ。
黄色から緑へ。
色と色の境界がゆっくりほどけ、画面全体が濃霧のようになっている。

一見すると、夕焼けや朝靄、光の中に浮かぶ空気のようにも見える。
しかし、これは自然を描いた絵ではない。
むしろ逆だ。
オリツキーは工業用のスプレーガンを使い、この「自然のようなもの」を人工的につくった。
1960年代半ば、彼は薄い絵具をスプレーし、何層も重ねていった。
筆で描くのではない。
絵具を置くのでもない。
空気のように吹きつける。
すると色は一つの形にならず、無数の粒子のように画面へ広がっていく。

人工的な方法で、自然現象のようなものが生まれる。
霧。
霞。
光。
大気。
しかし、どれも実際には存在しない。
あるのは、スプレーされた絵具だけだ。
ここがオリツキーの面白さだ。
ルイスが絵具をキャンバスに染み込ませ、ノーランドが色と色を並べたとすれば、オリツキーは色を空気の中へ放した。

しかも、近くで見ると意外に工業的だ。
絵具の粒子があり、スプレーの痕跡がある。
ところが少し離れると、それらが消え、霧や光のように見えてくる。
物質が、現象へ変わる。
人工物が、自然のように見える。
ただし、オリツキーの画面は、単に全体をぼんやりさせたものではない。
霧だけでは、画面そのものがぼやけてしまう。

だから彼は、画面の一部に鮮明な色を残す。
特に画面の端には、カラースケールのようにクリアな色が現れることがある。
それは霧の中に突然現れる基準点のようだ。
周囲の色が曖昧になればなるほど、そこにある明確な色が目に入る。
そして、その一点を手がかりに、私たちはもう一度画面全体の色を見始める。

これは、オリツキーが「色を自由に漂わせた」というだけではなく、どこまで曖昧にし、どこを明確に残すかを判断していたことを示している。
霧をつくる。
しかし、霧だけにはしない。
ぼかす。
しかし、絵として成立する場所を残す。

ここには、抽象表現主義のような純粋な衝動とは違う、かなり冷静な絵作りの意識がある。
「こうすれば画面になる」。
「ここは少しキリッとさせておこう」。
そうした作為によって、曖昧な色彩が一枚の絵として立ち上がってくる。
これはノーランドにも通じる。
ノーランドが円やストライプという条件を設定して色を働かせたように、オリツキーもまた、色を自由にするための条件を画面の中につくった。
ただ、ノーランドが色を並べたのに対して、オリツキーは色を拡散させた。
一方は色を整理することで、もう一方は色を曖昧にすることで、画面をつくったのである。

だからオリツキーの絵は、純粋な抽象でありながら、どこか疑似自然的だ。
自然を描かない。
しかし、自然を感じさせる。
人工的なスプレーなのに、霧や光のように見える。
絵画はここで、物質から空気へ近づいていく。
しかし、その空気は放っておけば消えてしまう。
だから画面の中に、色をつなぎ止める場所が必要になる。
オリツキーは、霧の中に画面をつくった。
そして彼はそこに、色と空気を、人工的な濃霧のように盛ったのだ。


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