1968年に発表された『エレクトリック・レディランド(Electric Ladyland)』と、2024年に発表された『スピーク・ナウ(Speak Now)』。
一方はロック史に残る名盤であり、もう一方は現代トラップを代表する作品のひとつである。
時代もジャンルも大きく異なるこの二作だが、聴いていると不思議な共通点が見えてくる。
それは、どちらも完成された形式の内部へ、あらためて身体を呼び戻そうとする作品だということである。

ジミ・ヘンドリックスの時代、ロックは急速に成熟しつつあった。
ブルースを基盤としながら、録音技術は発達し、演奏技術も洗練され、ロックは巨大な文化として制度化され始めていた。
一方、マネーバック・ヨーが立つ現代のヒップホップも似た状況にある。

トラップはすでに成熟した様式であり、重低音の808、細かく刻まれるハイハット、広大な空間処理は共通言語となっている。
革新だったものは定型となり、ヒップホップはひとつの制度となった。
しかし興味深いのは、そのような成熟した形式のなかで、両者がむしろ形式からはみ出す部分に価値を見出していることである。

ジミ・ヘンドリックスのギターは、決して整った演奏だけでは語れない。
フィードバック。
ハウリング。
アンプの歪み。
弦を擦るノイズ。
本来なら排除されるはずの音が、そのまま作品の内部へ入り込んでいる。
彼はギターを演奏しているというより、ギターという装置から漏れ出る予測不能な出来事そのものを音楽へ変換していた。

『Electric Ladyland』は、その感覚がもっとも極端な形で現れた作品だった。
スタジオ録音でありながら、作品はどこか制御不能な印象を持つ。
楽曲は幾層にも重なり、ノイズや偶然性を抱え込みながら膨張していく。
完成へ向かうというより、完成から溢れ出していくのである。
この感覚はどこかジュリアン・シュナーベルを思わせる。
シュナーベルの代表作である皿絵画では、絵画の表面に割れた陶器が貼り付けられている。

そこにあるのは純粋な絵画ではない。
本来なら絵画の外部にあるはずの異物が、そのまま作品の内部へ持ち込まれている。
重要なのは陶器そのものではない。
異物が混入することで、完成された絵画の秩序が揺らぎ始めることなのである。
ジミ・ヘンドリックスのノイズもまた、それに近い。
音楽の外部に追いやられていたものが、作品の中心へ入り込んでくる。
だから彼の音楽は、半世紀以上経った現在でも奇妙な生々しさを保っている。
そしてマネーバック・ヨーの『Speak Now』もまた、別の形で同じ問題に向き合っている。

現代のヒップホップには自己を表現するための記号が溢れている。
成功。
高級車。
ジュエリー。
ブランド。
SNS。
そして身体を覆うタトゥー。
自己を示すための言語は、すでに過剰なほど存在している。
マネーバック・ヨーの身体にも無数のタトゥーが刻まれている。
身体そのものがひとつの記号空間になっていると言ってもいい。
だが、そのなかで最後まで完全には記号化されないものが残る。

それが声である。
声には身体の癖が残る。
言葉の濁り。
息継ぎ。
リズムの揺れ。
発音の曖昧さ。
マネーバック・ヨーは、それらを消し去ろうとしない。
むしろ作品のなかへ残している。

だから彼のラップには、完成されたトラップの形式のなかでなお身体が呼吸しているような感覚がある。
それはシュナーベルが絵画のなかに異物を残したことにも似ている。
形式を壊すためではない。
形式の内部へ再び生命感を流し込むためである。
考えてみれば、創造性とは必ずしも新しい形式を発明することではない。
むしろ完成された形式の内部へ、あらためて身体や偶然性を呼び戻すことなのかもしれない。
『Electric Ladyland』と『Speak Now』は、そのことを半世紀以上の距離を超えて示している。

ジミ・ヘンドリックスはノイズによって。
マネーバック・ヨーは声の揺らぎによって。
完成された様式のなかへ、制御しきれない身体を残した。 そしてその身体こそが、作品を単なる制度から引き離し、いまなお生きた表現へ変えているのである。

ジュリアン・シュナーベル ― 異物の侵入
―― 絵画の中へ身体を呼び戻す ――
ジュリアン・シュナーベルの作品を初めて見ると、多くの人はまずその物質感に驚く。
巨大な画面。厚く盛り上がった絵具。そして貼り付けられた無数の割れた陶器。
それらは通常の絵画とはどこか違って見える。
絵画でありながら、絵画だけではない。むしろ何か別のものが混入しているように感じられる。

シュナーベルが登場した1980年代初頭、絵画はすでに長い自己批判を経験していた。
抽象表現主義。ミニマリズム。コンセプチュアル・アート。
現代美術は形式そのものを問い続け、絵画という制度を徹底的に分析してきた。その結果、絵画はかつてないほど自覚的で洗練されたものになった。しかし同時に、どこか身体から遠ざかっていたとも言える。
シュナーベルが行ったのは、その状況への単純な反動ではない。彼は絵画の歴史を否定したのではなく、その内部へ再び異物を持ち込んだのである。
代表作である皿絵画では、割れた陶器が画面に貼り付けられている。

それは絵画のために作られた素材ではない。本来なら画面の外側にあるはずのものだ。
しかしシュナーベルは、それを排除しない。
むしろ積極的に作品へ取り込む。すると画面は奇妙な状態になる。
絵画として統一されながらも、完全には統一されない。
秩序がありながら、どこか制御不能な感覚が残る。
そこには絵画の外部が存在している。
重要なのは、陶器そのものではない。
異物が混入することによって、作品の内部に偶然性や抵抗が生まれることなのである。
割れ目。凹凸。光の反射。素材の重さ。

それらは作家の意図だけでは完全に支配できない。だから作品には常に身体的な生々しさが残る。考えてみれば、それは絵画に限った話ではない。どれほど完成された形式にも、必ず制御しきれない部分が存在する。
音楽であればノイズ。文学であれば言葉の揺らぎ。身体であれば癖や呼吸。
シュナーベルが興味を持っていたのは、そのような制度化されない領域だったように見える。
彼の作品はしばしば過剰だと言われる。
大きすぎる画面。厚すぎる絵具。多すぎる引用。
だがその過剰さは単なる装飾ではない。完成された秩序の内部へ、再び生命感を流し込もうとする試みなのである。

だからシュナーベルの作品には独特の緊張感がある。
それは完成へ向かう緊張ではない。むしろ完成から溢れ出していく緊張である。
画面は統一されながらも統一しきらない。形式は成立しながらも閉じない。
作品のなかには常に余白が残されている。その余白こそが、彼の表現の核心なのかもしれない。
現代美術はしばしば新しい形式を求めてきた。
だがシュナーベルが示したのは別の方向だった。

創造性とは、新しい形式を発明することだけではない。むしろ完成された形式の内部へ、あらためて異物や身体を呼び戻すことでもある。
割れた陶器。厚い絵具。制御しきれない素材。それらは単なる材料ではない。
絵画という制度のなかに残された生命の痕跡なのである。
だからシュナーベルの作品は、いま見てもどこか未完成に感じられる。
そしてその未完成さこそが、作品を生きたまま現在へ運び続けているのである。


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