フリーダ・カーロ(1907–1954、メキシコ)
引き裂かれた身体、接続される自己
カーロ の絵画には、20世紀前半の断裂した身体と混成化するアイデンティティが、そのまま露出している。
事故による負傷。繰り返される手術。民族衣装。政治運動。恋愛。流産。自己演出。
彼女の画面では、それらが整理されることなく同時に存在している。
たとえば《二人のフリーダ》では、二人のフリーダが並んで座っている。一方はヨーロッパ風ドレスをまとい、もう一方はメキシコの民族衣装を身につけている。二つの身体は血管によって接続され、露出した心臓がむき出しのまま脈打っている。

そこでは自己は統一されていない。
ヨーロッパとメキシコ。
近代と民族性。
女性性と傷。
愛と切断。
それらが分離しきれないまま、ひとつの身体の内部で共存している。
また《メキシコとアメリカ合衆国の国境線上の自画像》では、彼女はアメリカ工業社会とメキシコの死生観の境界に立っている。片側には機械、煙突、都市文明。もう片側には太陽、花、遺跡、土壌。だが重要なのは、彼女がどちらかを選択していないことである。

カーロの絵画では、境界そのものが居場所になる。
さらに《折れた柱》では、裂けた身体の内部にイオニア式の柱が埋め込まれ、皮膚には無数の釘が刺さっている。そこでは人体、建築、宗教画、医療図像が混ざり合い、身体はもはや単なる肉体ではなく、文化や歴史の断片が集積する場所へ変わっていく。

その感覚は、シュルレアリスムとも接続している。実際、アンドレ・ブルトン は彼女をシュルレアリストとして称賛した。しかしカーロ自身は、「私は夢を描いたのではない。自分の現実を描いたのだ」と語っている。
ここで重要なのは、彼女の絵画が幻想逃避ではないことである。
むしろ彼女は、近代化、植民地主義、事故、ジェンダー、民族性、身体損傷といった現実そのものが、すでに“混ざりすぎた状態”になっていることを描いていた。

そのため彼女の画面では、痛みと装飾、死とユーモア、民族性と人工性が奇妙な均衡を保ち続ける。
それは単なる自画像ではない。移動する文化と断裂した身体が、一枚の絵画のなかで接続を試みる場だったのである。 カツカレーカルチャリズムの視点で見れば、彼女は皿の上に「傷ついた身体」と「混血する文化」を同時に盛りつけたのである。

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