音楽

まかないからメニューへ ― ビョークの一時代 ~ ポストとホモジェニックのあいだ

ビョークをどこで聴き終えるか ビョークという音楽家は、しばしば「すべてを通して聴くべき存在」として語られる。デビューから最新作までを一本の進化の物語として捉え、実験性の深化やコンセプトの高度化を評価軸に置く語り方である。しか...
アート

カツカレーカルチャリズム画家列伝82 ~マシュー・バーニー 編

硬化する身体と幸福停止の美学 マシュー・バーニーの作品は、強い造形的印象や神話的なモチーフにもかかわらず、鑑賞後に明確な理解や快楽を残さない。そのわかりにくさは、1990年代的シニシズムやゴシック趣味として説明されることも多いが、そ...
アート

カツカレーカルチャリズム画家列伝81 ~ヤン・ファーブル 編

過剰な造形と観念の緊張~カツカレーカルチャリズム以後の視座から 出典:Artpedia/ヤン・ファーブル 骸骨と甲虫 — 文化としての不気味さ ヤン・ファーブルの作品に対して、多くの観者が最初に抱くのは戸惑いである。虫の...
映画

才能が宿ってしまう身体 ― 「国宝」から考える表現の重さ

映画「国宝」を見ている途中から、マルセル・カルネの『天井桟敷の人々』の記憶が不意に立ち上がってきた。物語の細部が似ているわけではない。呼び起こされたのは、才能や芸が人に与える自由ではなく、むしろ人を縛り、消耗させ、個人の人生を超え...
映画

知覚が先に動いてしまう映画 ― 新海誠作品とアニメーションという前提

先日あらためて新海誠の『君の名は。』『天気の子』を見た。これらの作品には、明確な主張がある。世界は分岐しているが、選ばれるのはこの身体、この関係、この一回であるということ。多世界的な想像力と、どうしようもなく一回性を引き受ける身体...
コラム・アート概論

コラム12:とどめる力としての絵画 ― 流れすぎる世界と身体性

あーとむーす画 アクリル B4 流れすぎる世界の中でとどめること ― AI時代の絵画と身体性 近代以降の表現を振り返ってみると、私たちはいつのまにか、作品が語り、主張し、意味を提示することに慣れてきたことに気づかされる。とりわ...
映画

なぜ、あの映画はいまの感覚とつながってしまうのか ― アルノー・デプレシャン『そして僕は恋をする』について

もう30年近く前に見たアルノー・デプレシャンの映画『そして僕は恋をする』を、なぜいまになって思い出したのか。しかも、単なる記憶の喚起ではなく、現在考えている問題意識と不思議なほど滑らかにつながってしまう感覚として。それは懐かしさで...
アート

カツカレーカルチャリズム画家列伝80 ~ジュリアン・オピー 編

ピクトグラムは健康そうに見える ― カツカレーカルチャリズム的視覚体験 出典:Artpedia/ジュリアン・オピー カツカレーカルチャリズムと「健康そうな表現」 カツカレーカルチャリズムとは、純粋性や正統性を神話化する文...
アート

カツカレーカルチャリズム画家列伝79 ~クリス・オフィリ 編

オフィリ ― 神聖と俗悪のカツカレー的混成 出典:Artpedia/クリス・オフィリ 過剰な装飾の裏側にあるもの クリス・オフィリの作品は、ひと目見た瞬間に強い印象を残す。ラメやグリッター、鮮烈な色彩、反復するパターン、...
音楽

デビッド・ボウイとブラック・スター ― 変化をやめたとき、変化は完成する

ブラックスターは例外ではない デヴィッド・ボウイの『Blackstar』は、しばしば「最晩年の奇跡」「死を予見した特別な作品」として語られる。しかし、その特別さを強調しすぎることは、ボウイという存在の本質を見誤らせる危険をは...
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