
カツカレーとしての『こぼれたミルクに泣かないで』
Jellyfishは、1990年代初頭に活動したアメリカのバンドである。ビートルズ以降のポップ・ミュージックの系譜を引き受けながら、多重コーラスや緻密なアレンジによって独自の音楽世界を築いた。
彼らのセカンド・アルバムであり、事実上の最終作となった『Spilt Milk』(1993年)は、ロックの主流がグランジへと大きく移行していた時期に発表されている。私にとってこの作品は、単なる好みを超えて、音楽制作のあり方そのものを問い直す名盤である。

ジェリーフィッシュの『Spilt Milk』(邦題:こぼれたミルクに泣かないで)を初めて聴いたとき、単なる懐古趣味には思えなかった。むしろ、当時主流だったグランジとはまったく異なる方向から、音楽の価値そのものを提示してくるような感覚があった。
粗さや内省が価値とされていた時代において、『Spilt Milk』はあまりにも整いすぎている。多重コーラス、緻密なアレンジ、過剰とも言える音の装飾。その背後には ビーチ・ボーイズや クイーンといった70年代ポップの構造がある。しかしそれは、単に過去の様式を「乗せている」わけではない。


ここで思い出されるのが、いわばカツカレー的な構造である。
カレーの上にカツを“トッピング”するという理解では、この作品は説明できない。重要なのは、その前段階、つまりカレーそのものの煮込みの時点で、すでに別の処理が施されているという点である。

スパイスの配合、火の入れ方、時間のかけ方——そのすべてが、従来の文脈とは異なるかたちで再設計されている。

同時に、カツもまた単なる付加物ではない。肉の下処理、衣の質、揚げの温度と時間。その工程は独立しているようでいて、最終的にはカレーと不可分の関係を結ぶように調整されている。

つまりここで起きているのは、「異なる要素の追加」ではなく、それぞれの工程そのものが、最終的な統合を前提として作り直されている状態である。

『Spilt Milk』も同様に、引用や参照が “後から載せられている” のではない。制作の初期段階から、すでにそれらが溶け込む前提で設計されている。だからこそ、結果として現れる音は過剰に構築的でありながら、不思議なほど自然に聴こえる。
このとき現れる「無邪気さ」は、決して初期状態だからではない。むしろ、複雑な工程を経た末に到達する最終形である。ポストモダン的な引用が伴っていたアイロニーや距離感は、ここでは表面から消えている。しかしそれは排除されたのではなく、内部に溶け込んでいる。カレーの中にスパイスが見えなくなるように、それらは全体の味として機能している。

その結果として現れるのが、「ただ好きだからやっている」ように見える表現である。しかし実際には、それは高度に制御されたプロセスの産物であり、複数の工程が緻密に調整された結果である。
このような構造は、その後の音楽にも異なるかたちで現れていく。『Spilt Milk』が示していたのが、構築を極めることで無邪気さへと到達する方法だとすれば、同時期のヒップホップにおいては、マッドヴィランが別の経路から同様の状態に接近している。彼らはサンプリングという手法によって断片を再構成し、膨大な編集と選択のプロセスを経ながら、それをあたかも自然に流れるものとして提示する。そこでは、構築の痕跡は前面に現れず、軽やかな質感として知覚される。

こうした個人への収束は、突然現れたものではない。たとえば中村一義のように、宅録というかたちで内面を音楽へと変換していく試みはすでに存在していた。ただしそこでは、制作環境は個人に近づきながらも、流通や共有の構造は依然として限定されていた。

一方で、ボーカロイド以降の文化においては、この構造はさらに個人の制作環境へと移行する。スタジオや集団的制作を前提としていた工程は、個人の内部へと引き寄せられ、長時間にわたる試行と選択の蓄積として内面化されていく。
そうした流れの中で浮かび上がるのが、ハチという存在である。彼の楽曲、たとえば『マトリョシカ』や『パンダヒーロー』においては、ポップで開かれたメロディと、どこか歪んだ構造が同時に成立している。

これは単に「個性的」という言葉では片付かない。むしろ制作の段階で、音の選択、リズムの揺らぎ、言葉の配置といった要素が、あらかじめ違和感を含む形で組み立てられている。
言い換えれば、ここでもまたカレーの煮込みの段階で味が決定されているのである。

さらに注目すべきなのは、その歪みが「演出」として前面化されていない点だ。違和感は断片として提示されるのではなく、あくまで全体の質感として存在し、リスナーには自然なポップとして受け取られる。異物は異物のまま提示されるのではなく、完全に溶け込んだ状態で現れる。
この構造は、米津玄師名義に移行した後も維持されている。ただしそこでは、内面で発酵したものがより広い聴衆へと接続されるため、構造はわずかに整理され、伝達の精度が高められている。それでもなお、中心にある歪みや偏りは消えない。

ここに見られるのは、「無邪気さの技術」のもう一つの形である。それは、個人の内部で極端に熟成された感覚が、そのまま外部へと開かれる状態であり、しかもそれが過剰な説明やアイロニーを伴わずに成立している点に特徴がある。
『Spilt Milk』がスタジオという閉じた空間で完成させたものを、ハチは個人の制作環境で実現している。どちらもまた、工程の段階からすでに統合を前提としているという点で一致している。
それはカツを乗せたカレーではなく、最初からカツカレーとして設計された料理である。
そしてその味は、食べる段階ではもはや分解することができない。
無邪気さは、後から足されるものではない。
それは、作り方そのものの中に埋め込まれている。

奈良美智における発酵と統合
音楽においてジェリーフィッシュの『Spilt Milk』が示していたのは、無邪気さが初期状態ではなく、複雑な工程の末に到達するものであるという逆説だった。この構造は、美術においても見出すことができる。その典型のひとつが、奈良美智の絵画である。

奈良の作品は一見すると非常にわかりやすい。単純化された人物像、平坦な色面、素朴とも言える構図。しかしその印象とは裏腹に、画面の成立はきわめて高度な調整の上に成り立っている。
たとえば輪郭線の処理。形の“きわ”は決して無造作に引かれているわけではなく、わずかな揺れや強弱によって像の存在感が精密にコントロールされている。また色面の扱いも単純ではない。背景と人物の関係はフラットに見えながら、色の重なりやにじみ、わずかな階調によって空間的な奥行きが生じている。さらに色の組み合わせも直感的に見えて、実際には経験に裏打ちされた選択の連続であり、どの要素も不用意に置かれているわけではない。

つまりそこでは、技術が前面に現れることなく、画面の内部に完全に吸収されている。
この状態は、『Spilt Milk』における音のあり方とよく似ている。過剰なまでに構築された要素が、最終的には“自然”に聴こえるように調整されているように、奈良の絵画においてもまた、複雑な工程が“素朴さ”として現れるように設計されている。

ここにもう一つの層として、ガレージロックやパンクに通じる感触を見出すことができる。ガレージロックやパンクに見られる、直接性やわずかな反抗、過剰に整えられていない表面の魅力。それに近い質感が、奈良の人物像の表情や佇まいに確かに存在している。

しかし重要なのは、それが粗さの結果ではないという点である。奈良の画面はむしろ、極めて高い技術と経験によって支えられている。形態、色彩、空間のすべてが精密に制御されたうえで、その制御があえて前景化されないように調整されている。つまりここで現れているのは、
技術によって到達された “ラフさ” である。
この構造は、先に述べたカツカレー的な比喩によってより明確になる。奈良の絵画において、素朴なイメージや親しみやすさ、そしてロック的な態度は、後から付加されたものではない。それらは制作の初期段階から組み込まれており、形態、色彩、空間処理といった各工程が、その最終的な印象を前提として組み立てられている。

つまりここでもまた、「後から乗せられた無邪気さ」ではなく、工程そのものに埋め込まれた無邪気さと態度が問題となっている。
結果として現れる画面は、親しみやすく、直接的でありながら、どこかに緊張や違和を含んでいる。そのバランスは偶然ではなく、経験と技術によって精密に制御されたものである。

奈良美智の絵画は、無邪気さや反抗の感触を“表現する”のではなく、それらが成立する条件そのものを作り出している。
それは、構築と発酵が完全に一致した状態であり、分解することのできない一つの質感として現れる。無邪気さは、ここでもまた、作られている。
そしてその内部には、制御されたラフさと、沈み込んだロックの態度が静かに息づいている。

カツカレーカルチャリズム画家列伝85 ~奈良美智 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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