エルヴィス・コステロ は、パンク以後の時代に登場しながら、その延長として語るには収まりきらない音楽家である。初期にはニューウェーブの文脈に位置づけられることが多かったが、彼の仕事を決定づけているのはスタイルではない。むしろその本質は、曲の内部に組み込まれたソングライティングの構造にある。

『ゲット・ハッピー!!』を聴くと、まず圧倒されるのはその速度と密度だ。曲は短く、数は多く、ほとんど間を置かずに次々と切り替わっていく。ソウルやR&Bの要素が過剰なほどに詰め込まれ、全体としてはどこか“躁状態”のような印象すらある。
一見すると、このアルバムは衝動のかたまりのように聞こえる。外部のスタイルを取り込み、そのまま走り抜けているようにも思える。しかし実際には、ここで起きていることはむしろ逆だ。
ここでは、衝動そのものが設計されている。

曲は次々と現れては消え、聴き手は一つの感情にとどまる前に次へと押し出される。雑多に聞こえる要素は、流れの中で確実にコントロールされている。取り込んでいるようでいて、すでに整理されている。
つまりここでは、衝動がそのまま出ているのではなく、衝動“のように見える状態”が作られているのだ。
この感覚はアルバム全体を通して持続する。どの曲も短く、決定的に展開しきる前に終わる。そのため音楽は完成へ向かうのではなく、常に運動し続ける。聴き手は一つの感情に固定されることなく、次の断片へと移動させられる。
ここで起きているのは、音楽の内容以上に、聴き方の操作である。没入させるのではなく、少し距離をとらせる。
しかしその距離は冷たいものではなく、むしろ高い熱を保ったまま維持される。

同時に、この作品にはもう一つの軸がある。それはビートだ。ここでのビートは単なるリズムではなく、音楽を前に進め続ける駆動力として機能している。ビートが流れを作り、その上にメロディが乗り、さらに言葉とアレンジがわずかな“引っかかり”を生む。メロディはわずかにねじれ、コードは少しだけ予想を外れ、展開は均整から逸脱する。だからこそ、曲は滑らかに流れきらず、どこかで聴き手を引き留める。
ここで重要なのは、ビートが単なる土台ではなく、出力を持続させるための条件になっているという点である。だからこのアルバムは止まらないし、次々と曲が現れ続ける。
こうした構造を持つ音楽は、リアルタイムでは少し奇妙に聞こえることがある。ときにそれは、どこか「嘘くさい」とすら感じられる。
その理由は、スタイルが“生きられている”のではなく、一度距離を取られ、操作されているからだ。ソウルやR&Bの語法は確かに存在するが、それは身体から自然に出てきたものではない。理解され、分解され、再配置された結果として現れている。
この「意図が見えてしまう状態」が、違和感として立ち上がる。

しかしこの違和感は、時間とともに意味を変える。当初は不自然に聞こえたものが、後から振り返ると、むしろ構造として理解されるようになる。リアルタイムでは少し嘘くさく聞こえるものが、時間の中で構造として回収される。
ここでコステロは、決定的な転換を果たしている。衝動をそのまま表現するのではなく、衝動を構造として扱う段階に入ったのである。
この能力は、その後の作品にも一貫して現れる。『インペリアル・ベッドルーム』では構造はさらに精密になり、『パンチ・ザ・クロック』ではポップな形式の中に収められる。『ブルータル・ユース』のように音が荒くなっても、その骨格は揺るがない。



スタイルは変わり続ける。しかし内部は変わらない。ここで起きているのは、スタイルを変えているのではなく、スタイルを通過させているという状態である。
この構造は、外部からも確認できる。ポール・マッカートニーとの共作、『フラワーズ・イン・ザ・ダート』において、マッカートニーが歌っているにもかかわらず、そこにはコステロ特有のメロディやコードの感触が残る。

これはスタイルの問題ではない。曲の骨格そのものが、すでにコステロの構造を通っているということだ。ここで評価されているのは、ジャンルでも音色でもなく、曲を生み出し続ける構造そのものである。
この状態は、文化のあり方としても読み替えることができる。異なる要素は純粋なまま保存されるのではなく、使われ、混ざり、配置される。そのとき問われるのは正しさではなく、機能である。
いわばカツカレーカルチャリズムとでも呼べるこの感覚においては、重要なのは素材の出自ではなく、それがどのように組み合わされ、新しい全体として働くかにある。
コステロの音楽は、この段階にある。ソウルもポップもロックも、彼の中では一度分解され、再配置され、何度でも出力される。

その結果として生まれるのは、混ざりきった音楽ではない。
むしろ、混ざり続けることが可能になった状態である。
『ゲット・ハッピー!!』は、その起点にある。
コステロはスタイルを変えたのではない。
自分の内部に、音楽を生成し続けるための構造を組み上げたのだ。
絵画における生成と距離 ― クレーとジョーンズ
音楽において見てきたこの構造は、絵画に置き換えるとさらに明確になる。
パウル・クレーの作品を見ると、まずその軽やかさに目がいく。小さな画面、簡潔な線、やわらかな色。しかしその内部では、単純な印象とは裏腹に、複数の要素が同時に動いている。

線は単なる輪郭ではなく、リズムのように画面を横断し、色は装飾ではなく層として重なっていく。ひとつひとつの要素は控えめでありながら、全体としては複雑な運動が生まれている。
ここで重要なのは、完成されたイメージよりも、生成の過程そのものが画面に残っているという点である。

一枚ごとの作品は閉じているように見えるが、実際には制作そのものが連続しており、作品はその流れの中で生まれている。つまり、
小さな形式の中で、構造が増殖していく。
この状態は、短い曲の中に運動と情報を折りたたんでいくコステロのあり方とよく似ている。

一方で、ジャスパー・ジョーンズの作品には、別の種類の明確さがある。
星条旗や標的といった、すでに広く共有されているイメージがそのまま画面に現れる。しかしそれは、単なる再現ではない。描かれているのは「旗」そのものではなく、「旗という見え方」そのものである。

ここでは、イメージはそのまま提示されながら、同時に距離を持たされている。
見ることと意味することのあいだに、わずかなずれが生まれる。
このずれによって、既存の形式はそのまま使われながらも、内部で組み替えられる。つまり、イメージは引用されるのではなく、操作されている。この距離の取り方は、スタイルをそのまま演じるのではなく、一度引き離して扱うコステロの方法と重なる。

こうして並べてみると、クレーとジョーンズは異なる方向に見えながら、ひとつの点で交わる。
クレーは、内部に生成の仕組みを持ち、そこから作品を生み出し続ける。
ジョーンズは、既存の形式に距離を取り、それを操作することで新しい関係を生み出す。
そしてコステロの音楽は、この二つの性質を同時に持っている。内部では生成が続き、外部に対しては距離が保たれる。そのため音楽は、完全に溶け合うことも、完全に固定されることもない。常にどこかで動き続け、同時にどこかでコントロールされている。
それは、混ざりつつある状態でも、混ざり終えた状態でもない。 混成そのものが、操作され続けている状態である。

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