ジェームズ・アンソール(1860–1949、ベルギー)
仮面と群衆のカツカレー
ジェームズ・アンソールは、19世紀末の混成が制度として整えられていくその只中で、そこに入りきらないものを画面に引き戻した画家である。
彼の作品には、仮面、骸骨、祝祭、群衆といった要素が繰り返し現れる。
それらは本来であれば、異なる文脈に属するものだが、アンソールの画面では同時に並置され、奇妙な一体感を生み出す。

代表作《キリストのブリュッセル入城》では、宗教的主題であるはずのキリストは、雑踏の中に埋もれ、ほとんど見分けがつかない。
画面を埋め尽くすのは、誇張された表情の群衆と、無数の仮面である。
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ここで起きているのは、単なる風刺ではない。
むしろ、意味の中心が失われた世界のあり方そのものが示されている。
仮面は本来、何かを隠すためのものだが、アンソールの世界では、すべての顔がすでに仮面のように見える。
個人と群衆、真実と虚構、宗教と祝祭。その境界は曖昧になり、どこにも確かな中心が存在しない。

これは、混成が制度として整えられる一方で、その内部に不安定さが残り続けていることの表れでもある。
整理され、配置され、美として提示されるはずの世界は、実際には均質にはならない。
むしろ、異なるもの同士の摩擦やノイズが、画面の中で消えずに残り続ける。

その感覚は、現代にも通じている。
スマートフォンの画面には、ニュース、広告、SNSの投稿、誰かの顔、加工された映像が絶え間なく流れ込んでくる。
怒りも、祝祭も、個人的な感情も、社会的な出来事も、すべてが同じ速度と同じ強さで並べられる。
そこでは本来異なるはずのものが区別されないまま、ひとつの流れとして消費されていく。
画面の中には無数の「顔」があるが、そのどれもが同じように見え、どこにも確かな中心がない。

それはまるで、仮面に覆われた群衆の中に立っているような状態である。
アンソールの絵画は、そのような世界の感覚を、すでに先取りしている。
彼は秩序を拒否したわけではない。
むしろ、秩序が成立しきらない場所を、そのまま画面として引き受けたのである。
彼は皿に、祝祭と不安、秩序とざわめきの同時性を盛ったのだ。

PSコラム ― 仮面=近代の人間像
アンソールの画面にあふれる仮面は、単なるモチーフではない。
それは、近代という時代における人間のあり方そのものを示している。
もともと仮面は、異界と接続するための装置だった。
日本の能や、祝祭としてのヴェネツィアのカーニバル、あるいはメキシコの死者の日において、それは人と人ならざるものの境界を越えるために用いられてきた。



しかし近代に入ると、その機能は反転し始める。
仮面は「別の存在になるためのもの」ではなく、「すでにそうである状態」を示すものへと変わっていく。
都市の中で人は、役割や記号として振る舞う。
名前や身分、職業や立場によって位置づけられ、他者との関係の中で自分を演じる。
そこでは、顔そのものがすでに仮面のような働きを持つ。
この感覚はさらに拡張されている。
現在では、プロフィール画像やアバター、加工された写真といったかたちで、人は複数の「顔」を使い分ける。
それは何かを隠すためというよりも、状況に応じて自分を成立させるための手段である。

こうして仮面は、特別な装置ではなくなる。
むしろそれは、人間が社会の中で存在するための基本的な形式となる。
アヴィニョンの娘たちに見られる仮面的な顔や、アンソールの群衆に広がる匿名性は、その変化の初期の兆候でもある。

仮面はもはや、外すべきものではない。
それは、人間が世界の中で生きるために身につけざるを得ない、もう一つの顔なのである。

カツカレーカルチャリズム画家列伝7 ~スーラ、アンソール 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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