ルフィーノ・タマヨ(1899–1991、メキシコ)
混血する色面 ― もうひとつのモダニズム
20世紀前半のメキシコ美術は、しばしば革命後の壁画運動によって語られる。巨大な壁面、民衆教育、政治性、社会変革。ディエゴ・リベラ や ダビッド・アルファロ・シケイロス たちが目指したのは、民族的歴史と革命を結びつける公共芸術だった。
しかし ルフィーノ・タマヨ は、その流れと微妙な距離を保ち続けた。

彼の画面にはメキシコ的要素が確かに存在している。果物、太陽、夜空、先住文化を思わせる色彩。しかしそれらは政治的物語として整理されず、むしろ静かな色面や抽象的空間の内部へ溶け込んでいく。
たとえば《動物》では、二匹の動物が鋭い緊張感を持って向き合う。しかし画面は写実的空間ではなく、紫や赤の色面によって構成された、夢と壁画の中間のような場所になっている。動物たちは神話的でありながら都市的でもあり、先住的記憶とモダニズム的単純化が同時に存在している。

《テワンテペクの女性たち》では、民族衣装をまとった女性たちが描かれるが、その身体は重厚な量感を持ちながらも、輪郭は簡略化され、色彩は大きな面として整理されている。そこには民俗表現への親密さと、ヨーロッパ近代絵画を通過した構成感覚が共存している。

また《無限を求める男》のような作品になると、人物、宇宙、原始性、抽象空間がひとつの画面で結びつき始める。メキシコという土地の感覚は残りながらも、それはもはやローカルな風俗画ではない。民族性そのものが、宇宙的な広がりへ接続されていく。

ここで重要なのは、タマヨが「純粋なメキシコ性」を求めなかったことである。
彼は先住文化を近代以前の起源として保存しようとはしなかった。むしろ、それを国際的モダニズムの内部へ持ち込み、ピカソ以後の構成感覚、色面、抽象性と静かに混ぜ合わせていく。
その結果、彼の絵画には独特の宙づり感覚が生まれる。民族性と都市性、神話とモダニズム、原始性と洗練が、互いを消去せずに同じ画面に存在し続けるのである。
それは革命壁画のように強く社会を語るわけではない。しかしその静かな混成こそが、移動と接続の時代における「もうひとつのモダニズム」だった。 カツカレーカルチャリズムの視点で見れば、タマヨは皿の上に「先住的記憶」と「国際モダニズムの色面」を同時に盛りつけたのである。

カツカレーカルチャリズム画家列伝27 ~ルフィーノ・タマヨ 編 | それいけ!カツカレーカルチャリズムマシーン ~思考と余剰を駆動する美術史ブログ

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