ビートルズの手の平の上で ― YBA、ブラー、オアシスと「制度内革命」のイギリス文化

音楽

90年代のイギリス文化を振り返るとき、そこにはどこか独特の「余裕」がある。
それはゼロから世界を変えようとする切迫感ではない。むしろ、“すでに世界を変えた経験がある国”の空気である。

その巨大な起点にいたのが、ビートルズ(The Beatles)だった。

出典:Artpedia/ビートルズ

ビートルズ以後、イギリスは単なる島国ではなくなった。ロック、ファッション、若者文化、デザイン――それらを通じて世界文化を更新できるという感覚が、国全体の深層に刻み込まれる。

つまり英国文化には、「自分たちは文化で世界を動かせる」という成功体験が、すでに存在していたのである。

90年代のブリットポップやヤング・ブリティッシュ・アーティスト(Young British Artists=YBA)は、その巨大な成功神話の“後”に現れている。だが、そのまま一直線に90年代へ繋がったわけではない。そこには決定的な中継点として、セックス・ピストルズ(Sex Pistols) を中心としたパンクが存在していた。

出典:Artpedia/セックス・ピストルズ

パンクは、ビートルズ以後に巨大化した英国文化の神話を一度破壊した。技巧や権威、芸術性やロックスター性を突き崩し、安っぽさや怒り、DIY感覚、階級性、メディア挑発を前景化していく。

しかし興味深いのは、英国のパンクが完全な“制度の外部”ではなかったことである。

たとえば マルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren) や ビビアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)の周囲には、ファッション、デザイン、アートスクール文化が密接に絡み合っていた。そこでは純粋な反抗というより、「制度を利用しながら制度を茶化す」感覚が強い。

出典:Artpedia/マルコム・マクラーレン、ビビアン・ウエストウッド

しかも彼らは、どこかで「制度の外部など存在しない」ことも理解していた。だからパンクは、社会の外へ脱走する革命というより、「制度の内部でノイズを最大化する」方向へ向かっていく。

テレビ出演、スキャンダル、ファッション、挑発――パンクはメディア社会を拒絶しながら、同時にメディアによって拡大していった。

つまりそこでは、革命そのものがすでに演出化・記号化され始めていたのである。

出典:Artpedia/イギリスのパンクとアナーキー

この構造は、その後の90年代文化へそのまま引き継がれていく。

だからYBAも、実際には単純な前衛ではない。後年、「世界を変えたブリティッシュアート」と語られることは多いが、実際の空気感は、むしろ“制度内の異様な活性化”に近い。

彼らは制度の外へ脱走したのではなく、アートスクールやギャラリー、メディア、ファッション、コレクター文化といった既存システムの内部で、回転数を異常に上げていった。

そこでは永遠性を持つ作品というより「いかに強いアイディアを一発で炸裂させるか」が重要になる。

ダミアン・ハースト(Damien Hirst) らの作品に感じられるのも、美術館的な崇高さというより、アートスクール的な「知的文化祭」の瞬発力である。

出典:Artpedia/ダミアン・ハースト「生者の心における死の物理的な不可能」

つまりYBAとは、ある意味では「制度の内部で行われた革命ごっこ」だったとも言える。

ただし、それは単なる空虚なシニシズムではない。

彼らは制度を本気で破壊できるとは思っていない。だが同時に、その制度内部でどこまで強いイメージや事件を発生させられるかを、本気で競っていた。

出典:Artpedia/フリーズ展のフライヤー

つまりそこでは、「革命できないと知ったあとでも、なお革命の身振りを続ける」という、奇妙な熱量が生まれている。そして重要なのは、その“ごっこ”が本当に世界へ波及してしまったことにある。ここに90年代イギリス文化の特殊さがある。

この感覚は、ブリットポップにも共有されている。
90年代のブリットポップは、単なる音楽ジャンルではなかった。そこでは「英国性」そのものが、ひとつの文化戦略として演出されていたのである。

当時のイギリスでは、アメリカのグランジ以後の空気が支配的になっていた。内省や倦怠、オルタナティヴ感覚がロックの中心へ入り込んでいた時代に、ブリットポップは逆に、英国訛りの発音や郊外文化、パブ感覚、古いポップミュージック、タブロイド文化や階級意識を強く押し出していく。

出典:Artpedia/ニルヴァーナ

つまりそれは、「イギリスらしさ」を再商品化する運動でもあった。
だが重要なのは、それが単純なナショナリズムではないことである。そこには常に、アイロニーやメディア意識、自己演出やキャラクター化が入り込んでいる。だからブリットポップは、どこか演劇的でもある。この“演出された英国性”は、同時代のYBAやファッション文化とも深く接続していた。

その中で、ブラー(Blur) と オアシス(Oasis) は、同じ地盤からまったく異なる方向へ進んでいく。

ブラーは、ビートルズ後期――特に リボルバー(Revolver) 以降に現れた編集性や引用性を強く継承していた。彼らにとって英国文化とは、没入する対象ではなく、配置し直し、組み替え、演出し、編集するための素材だったのである。

出典:Artpedia/ブラー

郊外も、階級も、テレビ文化も、英国趣味も、一度フラットな記号として扱われる。そこでは「リアルな感情」そのものより、「文化をどう配置すれば面白く見えるか」が重要になる。

その感覚は、ジュリアン・オピー(Julian Opie) らYBAの視覚性とも深く重なっている。

出典:Artpedia/ジュリアン・オピー「ゲイリー、ポップスター」

ブラーはロックを信仰するというより、「ロックという文化をどう編集できるか」を考えていた。だから彼らには常に少し引いた視点がある。初期〜中期のブラーには、観察者的視線やコラージュ感覚、ポップアート的距離感が強く存在していた。そして興味深いのは、その“編集感覚”そのものが、90年代イギリスにおいて極めてクールなものとして機能していたことである。

英国文化を内側から少し茶化しながら再配置すること。階級や郊外性、安っぽさや日常性さえも、スタイルとして提示してしまうこと。ブラーはそうした感覚を、単なる批評ではなく、ポップとして成立させてしまった。つまり彼らは、「英国文化を編集すること」自体を、新しいかっこよさへ変換したのである。

出典:Artpedia/ブラー

一方、オアシスは、同じビートルズを参照しながら、まったく異なる方向へ向かった。
彼らはビートルズを“編集可能な文化資源”としてではなく、「永遠のロックスター神話」として受け継いだのである。

出典:Artpedia/オアシス

そのためオアシスでは、アイロニーや距離感は前景化しない。巨大なメロディ、感情の直進性、群衆との一体感、スターになる夢――そうしたものが中心に置かれている。

しかもオアシスの楽曲は、構造的には驚くほど単純である。反復されるコード進行、大合唱的サビ、直線的な展開。しかし、その“ベタさ”こそが重要だった。

90年代という、あらゆる文化がメタ化・編集化されていく時代において、オアシスはむしろ、「それでもロックを信じ切る」という態度そのものを提示していたのである。

ただし彼らもまた、パンク以後の世界を通過している。だからこそ、そのロックスター像には荒さや反知性的感覚、労働者階級的身体性、ケンカ腰の粗さが残っている。

出典:Artpedia/オアシス

つまりオアシスは単なるクラシックロック回帰ではない。
むしろ彼らは、「編集化された時代に、あえて神話を再び真正面から信じる」という、極めて90年代的な存在だったのである。

だからブラーとオアシスは対立しているようでいて、実際には同じ地盤から生まれている。

どちらも、ビートルズによる成功体験、パンクによる神話破壊、アートスクール的制度感覚、メディア化された英国文化の内部にいる。
つまり90年代イギリス文化とは、「巨大な伝統が存在している安心感の中で、制度内革命を遊戯化した時代」だったのである。 そして、その遊びが本当に世界へ波及してしまったところに、あの時代の異様な強度があった。

出典:Artpedia/ビートルズ

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