電気グルーヴ『VOXXX』『TROPICAL LOVE』における「笑い」と「いたさ」の地平

音楽

すべり続ける音楽

電気グルーヴを最初に聴いたときの印象は、「ちょっとかっこいいけど変なお兄さん」だった。音は確かにクールで、テクノとしての機能美も備えている。だが同時に、どこか妙にふざけていて、そのかっこよさに安心して身を委ねることを許さない。この段階では、“かっこよさ”と“変さ”はまだ分離せず、同じ地平の上で共存している。そのため聴き手は、どこに立てばいいのかを確信できないまま、わずかに宙づりにされる。それが初期から『A』に至るまでの特徴だった。ここにすでに、「すべりそう」という感覚の萌芽がある。

出典:Artpedia/電気グルーヴ

その曖昧な均衡は、『VOXXX』において一度、極端なかたちで展開される。このアルバムは、ミニマル・テクノの機能性やトランス的な高揚、さらにはそれ以前のポップ性やユーモアまでも圧縮し、過剰な密度へと押し上げた到達点である。音は精密に構築され、ほとんどシステムのように振る舞う。しかしその内部では、常にどこかが「すべりそう」になっている。

出典:Artpedia/電気グルーヴ「ヴォックス」

たとえば「スペース・インベーダーズ」では、反復の強度やリズムの機能性によって身体は確実に同調するにもかかわらず、そこに混入するゲーム的な軽さが、完全な没入をわずかに妨げる。聴き手はノりながらも、同時にどこかで冷めている。
「エジソン電」に至ると、その不安定さは意味の側から現れる。音の完成度に対して言葉が過剰に軽く、ナンセンスであるため、真面目に受け取るべきかどうかの判断がつかない。この“いたさ”は単なるユーモアではなく、構造そのものを揺らす働きを持っている。

さらに「フラッシュバック・ディスコ」では、別の反転が起こる。ここではむしろ、トラックがあまりにもストレートに“良いテクノ”として成立してしまう。そのこと自体が「いいのか?」という違和感を呼び起こすのである。ズレがあるのではなく、ズレがなさすぎることがズレとして知覚される。この曲がアルバムの中に置かれることで、他の楽曲における逸脱や“いたさ”が逆に際立ち、結果として全体が一層不安定なものとして立ち上がる。

出典:Artpedia/電気グルーヴ

こうして『VOXXX』は、完成へと向かいながら同時に崩壊の気配を孕む、きわめて緊張した状態を維持する。そこで聴き手に生じるのは、音楽的な快楽に没入する感覚というよりも、どこに身を置けばよいのか分からないまま体験の中に留め置かれる、ある種の宙づりの感覚である。この点で電気グルーヴの音楽は、むしろパフォーマンスアートに近い性質を帯びる。

それに対して『TROPICAL LOVE』では、状況は一見穏やかに見える。EDM以降のビートやディスコ的な軽やかさを取り込み、音は開かれ、余白を持つ。ここには円熟や安定に近い感触がある。しかしその安定は、最後のところで必ず留保される。

出典:Artpedia/電気グルーヴ「トロピカル・ラヴ」

「人間大統領」では、ベースラインの強度によってトラックはほぼ完全に成立しているにもかかわらず、そのかっこよさは純粋な形で定着しない。どこかにわずかな違和感が残るのは、その上に乗る言葉が音の完成度と微妙に噛み合わず、意味の定まらないまま宙づりになるからである。

「柿の木坂」は一見すると最も整った楽曲であり、むしろ真面目に響く。しかしその“整い”は、電気グルーヴに対して想定される期待――どこかでズレるはずだという前提――を裏切るかたちで現れる。その結果、かっこよさにスキがなさすぎること自体が違和感として残り、別のかたちの不安定さを生み出す。ここでは“いたさ”は露骨に現れるのではなく、ズレが訪れないことへの予感として、静かに持続している。

出典:Artpedia/電気グルーヴ

このように見ていくと、『VOXXX』と『TROPICAL LOVE』は対照的でありながら、同じ原理に支えられていることが分かる。前者は過剰な完成の中で音楽をすべらせ、後者は安定しきる直前でそれを再び揺らす。いずれにおいても、「うまくいってしまうこと」は回避される。

そしてその起点には、初期に感じられた「ちょっとかっこいいけど変なお兄さん」という印象がある。それは未整理な段階ではなく、かっこよさと笑いが一致しない状態を保ち続けるという、一貫した態度の現れだったと言えるだろう。

出典:Artpedia/電気グルーヴ

電気グルーヴは、「笑い」や「いたさ」を排除することで音楽を洗練させるのではなく、それらを内部に抱え込むことで、音楽を不安定なまま持続させる。その結果生まれるのは、すべりそうでありながらすべらず、しかし決して安定もしないという宙づりの状態である。
ここで用いられているのは、音そのものだけではない。意味の定まらない言葉、ふざけた響き、わずかに“いたい”表現――そうした言語の操作が、音楽の構造そのものを揺らしている。
「笑い」や「いたさ」をここまで露骨に、しかも精密に組み込みながら音楽を成立させる例はほとんどない。
その持続こそが、彼らが切り開いた新しい地平なのである。

出典:Artpedia/電気グルーヴ

すべりとしての彫刻 ― マウリツィオ・カテランと制度の内側の違和感

マウリツィオ・カテランの作品に触れたとき、多くの場合まず感じられるのは「笑っていいのか分からない」という戸惑いである。そこにはユーモアがある。分かりやすさもある。しかし同時に、どこか居心地の悪さが残る。その感覚は、単なる風刺やジョークには回収されない。むしろ、笑いが成立しかけた瞬間に、わずかに「すべりそう」になるのである。

この感覚は、音楽における電気グルーヴのそれとよく似ている。かっこよさや完成度が十分に成立しているにもかかわらず、その内部にわずかなズレが仕込まれているため、鑑賞者はどこに身を置けばいいのか確信を持てない。完全に乗ることも、完全に距離を取ることもできない。その宙づりの状態が持続する。

出典:Artpedia/マウリツィオ・カテラン「ビディビドビディブー リスの自殺」・・・え?

カテランの特異性は、まさにその「宙づり」を、美術という制度の内部で発生させている点にある。彼はしばしばアート教育を体系的に受けていない作家として語られるが、重要なのはその経歴そのものではない。むしろ彼の位置は、制度の外部にいるのではなく、制度の中心に入り込みながら、その前提をわずかにズラすところにある。

たとえば《Comedian》では、壁に貼り付けられたバナナという極端に単純なイメージが提示される。それは一見すると分かりやすく、誰もが笑える。しかしその笑いはすぐに不安定になる。なぜこれが美術作品として成立しているのか、その価値はどこにあるのか――そうした問いが即座に立ち上がり、鑑賞者は判断を保留せざるを得なくなる。

出典:Artpedia/マウリツィオ・カテラン「コメディアン」・・・軽いすべり

また《America》においても、作品は明確なメッセージを持ちながら、それを過剰な形で提示することで、単純な批評へと回収されることを拒む。豪奢であるはずの黄金の便器は、同時に滑稽であり、どこか“いたい”。ここでもまた、意味は成立しながら、その成立がどこかで揺らいでいる。

出典:Artpedia/マウリツィオ・カテラン「アメリカ」・・・過剰なすべり

さらに《Him》のような作品では、その揺らぎはより鋭い形で現れる。祈る少年のように見える像が、近づくとヒトラーであることに気づく。その瞬間、鑑賞者の感情は宙づりになる。共感すべきなのか、拒絶すべきなのか、判断が定まらない。この「すべり」は、倫理的な次元にまで及ぶ。

出典:Artpedia/マウリツィオ・カテラン「彼」・・・倫理的なすべり

こうした作品群に共通しているのは、「成立しているにもかかわらず、どこかで成立しきらない」という状態である。カテランは、作品を未完成にしているのではない。むしろ十分に成立させたうえで、その成立をわずかにずらす。その結果、鑑賞者は常に不安定な位置に置かれることになる。

ここでの「笑い」や「いたさ」は、副次的な要素ではない。それらは、作品を単なる理解や評価から引き離し、体験として持続させるための構造的な要素である。笑えるはずのものが笑いきれず、意味があるはずのものが意味に収まりきらない。その不一致こそが、カテランの作品を成立させている。

出典:Artpedia/マウリツィオ・カテラン「L.O.V.E.」・・・やっちまいましたね~

この点において、カテランは現代美術の内部における「すべり」の作家であると言えるだろう。制度の枠組みを壊すのではなく、その内部でわずかにずらすことで、制度そのものを不安定化させる。鑑賞者はその不安定さの中で、判断を保留し続けることになる。

電気グルーヴが音楽において行ったこと――すなわち、完成と逸脱を同時に成立させ、「すべりそうで、すべらない」状態を持続させること――は、カテランにおいては美術の領域で実現されている。そこでは「笑い」や「いたさ」は排除されるべきノイズではなく、むしろ作品を開いたままにしておくための力として機能する。 その結果、作品は決して安定した意味に回収されることなく、常に「これでいいのか」という問いを含んだまま提示される。
その問いが持続するかぎり、作品は終わらない。
そしてその終わらなさこそが、カテランが切り開いたもう一つの地平なのである。

出典:Artpedia/マウリツィオ・カテラン「ローマ教皇 第九の時」・・・いいの?

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