モーツァルトという存在――白米の極限と、想念としてのカツカレー

音楽

白米の時代に生まれたモーツァルト――情報過多以前の創造環境

 モーツァルトとは何だったのか。この問いは、天才神話に覆われた人物であるがゆえに、案外真正面から考えられてこなかった。あらゆる才能を「神が与えた」ものとして放置してしまうと、彼の創造構造はいっこうに見えてこない。むしろ、彼が生きた十八世紀後半の文化環境に目を向けることで、驚異的な創作速度や膨大な作品数を支えた基盤が少しずつ輪郭を帯びてくる。

 十八世紀のヨーロッパは、現代のような情報過多の世界ではなかった。新聞は存在したが、内容は限られ、絵画もほとんどが宗教画か肖像画で、民衆が自由に触れる娯楽は多くなかった。音楽にしても、耳に入るのは宮廷や教会で演奏される作品が中心であり、異文化の音楽や大胆な混成的スタイルに触れる機会は極めて少ない。もちろん、アフリカの打楽器やアジアの音階に触れ、「異質な美」を手探りで自分の言語に取り込むといった経験はほとんど不可能だった。そうした時代において、音楽家は、ほぼ単一の文化圏に根ざした「白米だけの食文化」に等しい音楽世界で生きていたのである。

 白米とは、決して貧しい比喩ではない。むしろ、白米とは純度の象徴であり、極限まで磨き上げられた基本材料であると同時に、それを研ぎ澄ます無数の工夫が存在することを示す概念である。十八世紀の作曲家とは、まさに白米の炊き方に膨大な労力と工夫を注ぎ込む存在だった。水の量、浸水時間、火加減、蒸らしの長さ―こうした微細な要素の調整によって、ごく限られた材料ながら無限にも思えるバリエーションを生み出す。モーツァルトはその白米文化の只中に生まれ、そこで味わえるあらゆる可能性を、誰よりも早く、誰よりも深く掘り下げた。

 つまり、モーツァルトが特殊なのは、彼が「混成文化以前の世界」で生きたことではなく、その世界でありながら、想像を絶するほどの速度と密度で白米を炊き続けた点にある。しかも、彼は白米そのものに不満を持ったわけではない。むしろ、白米を白米として極限まで磨きたかったがゆえに、繊細すぎるほどの工夫を重ね、結果として白米文化の最終到達点のような純度をつくり上げてしまったのである。

 この「極限化」は、今日の我々が考える創造性とは少し異なる。現代の芸術家は、異文化の要素を混ぜながら新しいスタイルを作り出すことが多い。いわばカレー粉を加え、具材を変え、皿を変え、盛り付けを変え、それによって個性をつくる。しかし十八世紀は、カレー粉の存在すら知らない世界だった。したがって、彼らの創造とは、あくまで白米の範囲内での微細な進化―構造の調整、響きの洗練、旋律線の磨耗、声部の澄明化―に集中するものだった。

 ところがその限られた領域で、モーツァルトはなぜここまで飛び抜けた存在となったのか。その答えを探るためには、彼の心理構造、特に幼少期から形成された独特の承認ループを見なければならない。

承認と快楽のループ――神童の精神構造が生んだ超高速創造

 モーツァルトについて「神童だった」という言葉はあまりにも頻繁に語られるが、神童であったという事実そのものよりも、神童として扱われ続けた環境が彼の内的構造をどう形成したかにこそ意味がある。彼にとって作曲行為は、労働ではなく快楽であり、承認を得るための最短ルートでもあった。彼は幼い頃から、作れば褒められ、褒められればさらに作りたくなり、その結果また褒められるという循環の中で生きてきた。これは心理学で用いられるエフィカシー―「自分はできる」という感覚―が加速度的に強化される環境であり、かつ強化の速度が常人とは比べ物にならないほど速かった。

 さらに重要なのは、彼が「創作に疑念を抱く」という段階をほとんど経験しないまま成長してしまったという点である。多くの作曲家は青年期以降、「自分の音楽は本当にこれで良いのか」という迷いと向き合う。しかしモーツァルトの場合、迷いを感じる暇がないほどアウトプットが先行していた。思いついた瞬間に書き、それがそのまま作品として成立してしまう。この「思考と実践の速度の一致」は、まるで呼吸や自律神経の働きに近く、一般的な創作の苦悩とはまったく異なるプロセスである。

 たとえば、ある協奏曲を作曲している最中に、彼の脳内ではすでに次の弦楽四重奏が鳴りはじめ、それを書いているうちにオペラの序曲が流れ込み、その合間にミサ曲の構造が浮かびあがる。こうした並列処理が可能だったため、彼が残した作品数は、生涯たった三十五年という短さにもかかわらず、常識的な時間配分では到底説明できない量に達している。

 この高速処理は、現代のAIに喩えられることもあるが、実際にはAIよりも直観的で、より動物的で、より身体的なものだっただろう。AIは訓練すれば大量のパターンを生成できるが、モーツァルトの音楽は単なるパターンではなく、微細な意志の喜びが宿っている。彼は音楽の内部で遊ぶことができた。白米の粒の中に隠された透明な光を見つけ、その光を別の粒と繋ぎ合わせ、さらにそこから無数のパターンを編み出していく。彼が音を扱う速度は、常人が指先で白米をつまむ速度とは違った。まるで、白米一粒一粒が手元ではなく脳内の水面に浮かんでいて、それを一瞬で並べ替えることができるような感覚だったのではないか。

 そのような環境で育つと、創作は「考えるもの」ではなく「湧き出るもの」になる。ここに、モーツァルトが「大量生産できた」という評価では捉えきれない秘密がある。彼にとって作曲とは、自分の内部にある泉が止まらず湧き続ける状態であり、泉が溢れないように譜面へと流す作業に近かった。

 そしてこの泉は、現代のような情報洪水の中で濁ることも沈むこともなかった。彼が触れる外界の情報が限定されていたからこそ、泉の水は純度を保ちつづけた。複雑に混成された音楽文化の中で育たなかったからこそ、彼の創造の速度は阻害されず、かえって異常なほど加速した。それは、白米以外を知らないがゆえに白米を極限まで追究できた環境と同じである。

白米の極限と鰹節ごはん――長調の輝きと短調の陰影

 モーツァルトの音楽の核心には、美しく澄んだ長調的世界がある。これを白米に喩えるなら、純度の高さそのものが価値であり、無駄な混合や過剰な味付けを必要としない料理の精神に近い。しかしその純度は、ただ清らかで穏やかなだけではない。むしろ、白米の甘みと香りを最大化するために、彼は火加減から水加減まで完璧な均衡を保つ技術を持っていた。交響曲第40番のような短調作品さえ、表面の陰影の奥で光が反射するような透明感を持っているのは、白米文化の技術を極限まで体得した証拠である。

 長調作品を例に取れば、ピアノ協奏曲第21番の第2楽章は白米の上にわずかに光が宿るような美しさを放つ。旋律線は細く伸び、付点リズムが軽く揺れ、弦は控えめな陰影を寄り添わせる。それは味の強い具材を乗せた美食ではなく、白米そのものの輝きにほかならない。白米の炊き方が完璧であるほど、余計な味付けは不要になるように、モーツァルトの長調作品は、音だけで空気を震わせる清明さを持っている。

 だが、彼が白米しか食べなかったわけではない。孤独な時間には、鰹節をのせて醤油をたらしたような、ささやかな味変を試すことがあった。その味変が短調作品の核心であり、彼自身が心の奥でこっそり味わった深い滋味である。短調作品には「大衆にはすぐ理解されないが、実は美味しい」特有の風味がある。たとえばピアノ協奏曲第20番やレクイエムは、白米の奥に潜む焦げ目のような香りを漂わせる。そこには快楽から少し距離を置いた、思索と孤独の手触りがある。

 興味深いのは、短調作品が単に暗いのではなく、暗さの奥に根拠のない希望が漂っている点だ。これは白米に鰹節をかけても、米の甘さが負けないのと同じである。モーツァルトには、どれほど沈んだ感情に触れても、人間の内側に必ず光が残ると信じていたような気配がある。仮に人生が厳しく、借金に追われ、家庭が乱れ、健康が損なわれていく局面でも、彼の音楽には光の粒が残った。それは、彼が白米文化の中で育ったという事実と深く関連している。

 この世界には混成という概念自体がなかった。
 つまり、モーツァルトは「白米の技術を捨て、別の料理に手を出してみよう」という発想をそもそも持たなかった。
 しかし、だからこそ、彼は白米そのものを極めることで、白米の中に無数の可能性を見いだしたのである。
 白米一粒に含まれた甘味、食感、熱、香りの変化――それらすべてを音楽という形式に置き換え、旋律、和声、対位法、構造のすべてに転写した。まさに、純度の極みとしての芸術だった。

 ただ、ここで一つの転換点が訪れる。それが《魔笛》である。《魔笛》には白米文化にはなかった何かが混ざっている。完全なカツカレーではない。だが、どこかでモーツァルトは想念としての混成に触れた。そこにこそ、彼の晩年の謎と輝きが宿っている。

想念のカツカレーとしての《魔笛》――混成以前の混成性の萌芽

 《魔笛》は、モーツァルトが生涯で唯一「混成」に近い機能を持たせた作品である。それは彼自身が意図して混ぜたというより、フリーメイソン思想、民衆劇、啓蒙主義、儀式性、寓話性、ドイツ語オペラの伝統といった複数の文化要素が、彼の周囲に偶然集まり、それが無意識に彼の内部で結晶したような感覚に近い。言うなれば、まだカツカレーという料理の発想がこの世にないのに、彼の夢の中で「カツカレーらしきもの」を見てしまったような状態だった。

 フリーメイソン的象徴はオペラの構造そのものを変質させ、短調的陰影と長調的光明が複雑に重なり合うようになった。音楽と劇は相互に意味を補完し合い、寓話的な筋は単なる善悪二項対立ではなく、啓蒙的な「光へ至る道」を示そうとする。そしてこの構造は、白米文化が持つ純度とは全く別の方向性を提示する。白米の炊き方を追究するだけでは到達できない、複数の味覚が同時に口の中で広がるような、新しい経験である。

 とはいえ、《魔笛》が完全な混成かといえば、そうではない。むしろその途中段階であり、白米にまだカレー粉が混ざりきっていない状態といえる。だが重要なのは、モーツァルトが晩年において「白米だけでは発揮されない可能性」を無意識に認識してしまった点である。フリーメイソンとの関わりは思想的刺激だったし、民衆劇との接触は彼に外部世界の多様性を感じさせた。そうした複数の外的要素が、彼の音の内部に新たな構造を生み、白米文化の均衡をわずかに揺らす。

 この揺らぎこそが、モーツァルトの晩年の最大の魅力である。《魔笛》には、白米の甘い香りと、鰹節の旨味と、ほんのわずかに混じりはじめたスパイスの気配がある。スパイスはまだ輪郭を持たず、味全体を支配するほど強くはない。しかし、白米だけで生きてきた人が初めて匂いだけ嗅いだカレー粉の存在は、強烈な印象を残す。彼が生涯の後半で見せる作風の変化は、まさにこの「匂い」によるものであり、本格的な混成文化が到来する十九世紀以降の音楽に向けて、細いが確かな橋を架けた。

 モーツァルト晩年の変化は以下の二点に要約される。
・白米文化の内部で極限に達した結果、白米以外の可能性を「匂い」として感知した。
・異文化混成の発想は持たなかったが、自らの内部の多層性が自然と滲み出る瞬間が生まれた。

 それは大げさに言えば、混成文化の誕生以前に混成の萌芽を生み出した瞬間である。モーツァルトは、意図して混ぜるのではなく、混ざる前の「ゆらぎ」を音にした。だから《魔笛》は、単に後期作の一つではなく、白米の究極と未来の混成文化の双方を予感させる、極めて独自な作品となる。

オペラ解説:モーツァルト「魔笛」ストーリー(あらすじ) | テノール歌手 髙梨英次郎

モーツァルトという存在とは――白米の極限と、混成の夢の狭間

 こうして振り返ると、モーツァルトの存在は次のように理解できる。彼は白米文化の最高到達点を築いた人物であり、白米という単一の素材からこれほどまで多様で美しい作品を生み出した者は他にいない。だが一方で、白米だけでは終わらず、わずかに鰹節をかけ、醤油をたらし、さらには夢の中でカツカレーを見てしまうほどの感受性も持っていた。

 とはいえ、モーツァルトが生きた時代には、まだカツカレーを作るための概念や具材が揃っていなかった。そのため、彼は混成の世界へ完全に踏み込むことはなかったし、踏み込めなかった。しかし、踏み込めなかったがゆえに、彼の音楽には混成以前の純度が保たれ、そこに永遠性が宿ることになった。彼の音楽には、十八世紀という単一文化圏特有の透明性が響く。白米の輝きは時間を超え、現代の我々の耳にまで届きつづける。

 モーツァルトとは何だったのか――その答えはこうまとめることができるだろう。
・白米だけで世界を描いた最後の巨匠であり、同時に白米の向こうにある未踏の味を夢見た最初の芸術家だった。

 モーツァルトの存在とは、純度と多層性のあいだに生まれた、奇跡のような一瞬の光だったのである。

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