身体は逃れない ― 『山猫』と『ヴェニスに死す』から読むヴィスコンティ

映画
ルキノ・ヴィスコンティ

ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』と『ヴェニスに死す』は、一見すると題材も時代も異なる作品である。前者は19世紀半ばのシチリアを舞台に、ガリバルディの統一運動という歴史的転換期を背景とし、後者は20世紀初頭のヴェニスで、一人の芸術家の内的崩壊を描く。しかしこの二作を軸に据えて眺めると、ヴィスコンティが一貫して取り組んでいた問いが浮かび上がる。それは近代化や社会変動そのものではなく、それらを生きてしまう人間の身体が引き受ける不可逆性の問題である。

『山猫』はしばしば「封建制から近代への移行」を描いた歴史映画として理解される。サリーナ公爵という没落しゆく土地貴族の視点から、新興ブルジョワジーの台頭が描かれ、彼の甥タンクレディは時代に適応することで生き延び、娘の婚姻は社会構造の変化を象徴する出来事として配置される。ここで描かれているのは確かに政治的・社会的な近代化である。しかしヴィスコンティの関心は、制度の優劣や進歩の是非にはない。彼が執拗にカメラを向けるのは、公爵の身体がすでに時代に取り残されているという事実である。

有名な舞踏会の場面において、公爵は豪奢な空間の中心にいながら、どこにも属していない存在として描かれる。若者たちの躍動、照明に照らされる肌、音楽に同期する呼吸。そのすべてが生命の更新を示している一方で、公爵の身体は疲労し、汗をかき、老いを露呈する。彼は変化を理解しているし、理性では受け入れてもいる。しかし身体はそれに追いつかない。このズレこそが『山猫』の核心であり、社会構造の問題はこの身体的事実の外側に付随しているにすぎない。

一方『ヴェニスに死す』は、より内向的で、ほとんど政治性を排した作品に見える。主人公アッシェンバッハは社会的役割を担う貴族でも地主でもなく、芸術家である。彼は制度の崩壊に巻き込まれるのではなく、自身の内側から瓦解していく。それでもこの作品が『山猫』と深く響き合うのは、ここでもまた「逃れられない身体」が主題となっているからである。

アッシェンバッハは理性と形式を重んじる近代的主体の典型として描かれる。彼は美を統御し、形式化し、作品として結晶させようとする。しかしヴェニスという湿度の高い都市、流行病の気配、そして少年タジオの肉体的な美は、彼の理性を静かに侵食していく。マーラーの交響曲第5番アダージェットが繰り返し流れるなかで、彼の身体は次第に衰弱し、化粧によって若さを装うほどに現実との乖離を深めていく。ここで描かれているのは欲望の悲劇というより、身体が時間に逆らえないという単純で残酷な事実である。

マーラー自身が生きた世紀転換期の状況を考えると、この音楽の選択は象徴的である。後期ロマン派の語法を引き継ぎながら、すでにその過剰さに引き裂かれていたマーラーは、近代に乗りながらモダンの裂け目に立たされていた作曲家だった。アダージェットの甘美さは、完成された形式というより、むしろ壊れやすい均衡の上に成り立つ脆さを孕んでいる。ヴィスコンティはこの音楽を通して、近代的主体の内部崩壊を身体のリズムとして可視化した。

この二作を貫く視点は、近代化や封建制の解体がもたらした問題が、ポストモダン的な分化や多様化によって解消されるのか、という問いへと接続される。社会が細分化され、価値観が並立し、共同体の拘束力が弱まった現代において、もはやサリーナ公爵やアッシェンバッハの悲劇は過去のものなのか。ヴィスコンティの答えは否である。なぜなら彼が描いているのは社会構造ではなく、時間の中に置かれた身体そのものだからである。

身体は選択以前に存在し、意味付け以前に老い、呼吸するたびに不可逆な変化を引き受ける。どれほど情報が溢れ、VRによって仮想的な可逆性が拡張されても、呼吸しているという事実だけで、人はすでに時間を一方向に進んでしまっている。制作や表現においても同様で、人の手を介する限り、そこには必ず不可逆性が刻まれる。やり直し可能な編集やシミュレーションの背後で、身体は確実に消耗し、変質している。

ヴィスコンティ自身の生い立ちは、この視点と深く結びついている。彼はミラノの名門貴族の家系に生まれ、まさに歴史的には「終わる側」の階級を身体的に引き受けていた。同時に彼は共産党に共感し、オペラや演劇、映画という近代的メディアに身を投じた人物でもある。この二重性は思想的な矛盾というより、彼の身体が引き裂かれた場所そのものだった。だから彼の作品は自伝的でありながら告白的ではなく、常に他者の物語として構築される。

『山猫』の公爵も、『ヴェニスに死す』の芸術家も、ヴィスコンティ自身の分身である。ただしそれは自己投影ではなく、自己を観察するための仮面である。彼は自分がどこに立っているのかを、何度も異なる歴史的・社会的配置の中で確かめ続けた。その終着点は、思想や制度ではなく、老い、疲労し、死に向かう身体であった。

そして重要なのは、この身体性が過去の遺物ではなく、今なお有効であるという点である。ポストモダン以降の社会において、意味は分散し、物語は解体され、主体は流動化した。しかし身体だけは分散できない。老いは延期できても回避できず、死は匿名化されても消えない。ヴィスコンティの映画が現在もなお強度を失わないのは、彼がこの逃れられなさを、美やノスタルジーに回収することなく、静かに提示したからである。

制作という不可逆性 ― 現在形としてのヴィスコンティ

ここであらためて、制作という行為そのものに立ち返る必要がある。ヴィスコンティの映画が現在においても有効であり続ける理由は、テーマや時代設定の巧みさではなく、制作が本質的に不可逆であるという条件を、彼自身が身体で引き受けていた点にある。フィルムを回すこと、俳優を立たせること、光を当てること、それらはすべて「一度起きてしまったこと」として世界に残る。編集によって整えられても、その背後には消えない時間と労力、そして疲労した身体が横たわっている。

デジタル技術が高度化した現在、制作は可逆的であるかのように錯覚されがちである。修正可能なデータ、無限に近い試行錯誤、仮想空間での再現。しかしその操作を行う身体は、確実に消耗し、老い、変質していく。ヴィスコンティが描いた老いと衰弱は、物語上の象徴ではなく、制作に関わる者すべてが避けられない条件の可視化でもあった。

『山猫』における舞踏会の長大なシークエンスは、時間を圧縮するのではなく、むしろ引き延ばすことで観る者の身体に負荷を与える。『ヴェニスに死す』の静止に近いカットの連なりは、感情を煽るのではなく、衰弱するリズムを観客の呼吸に重ねていく。これらは思想の表現というより、身体的経験の共有であり、制作を通じてしか成立しない領域である。

制作とは、意味を生産する行為である以前に、身体が世界と関係してしまう出来事である。筆を置くことも、カメラを止めることも、完全な撤回はできない。だからこそ制作は常に危うく、同時に現実的である。ヴィスコンティはその危うさから目を逸らさず、むしろ映画という集団的・物質的なメディアを通じて、それを最大化した。

ポストモダン以降、表現は細分化され、価値は相対化され、物語は解体された。しかし制作の場に立つ身体だけは解体できない。どれほど軽やかなコンセプトであっても、どれほどアイロニカルな構えであっても、作る者の身体は不可逆な時間を生きている。ヴィスコンティの映画が示すのは、その事実を無視した表現は、いずれ空虚になるという静かな警告である。 『山猫』と『ヴェニスに死す』は、過去の映画であると同時に、現在の制作環境に向けられた鏡でもある。呼吸している限り、人は時間から逃れられない。その条件を引き受けたうえでなお、何を作るのか。ヴィスコンティの作品は、その問いを解決することなく、しかし確実に身体に残る形で差し出している。

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