薄さのリアリティ ― スタイル・カウンシル『café Bleu』について

音楽

スタイル・カウンシルの『Café Bleu』(1984年)は、しばしば「おしゃれで軽い」「洗練されているが薄い」と評されてきた。実際、このアルバムにはザ・ジャム期の切迫感や、アメリカ黒人音楽の持つ身体的な厚みはほとんどない。だが、その“薄さ”こそが、本作の最大のリアリティであり、1980年代初頭のイギリスという場所と時代を極めて正直に映し出している。

ポール・ウェラーは、ザ・ジャム解散後、より広い音楽的地平へ踏み出した。スタイル・カウンシルでは、ジャズ、ソウル、ファンク、シャンソン、ヨーロピアン・ポップといった要素が積極的に導入されるが、それは文化横断を理論的に自覚した態度というより、「今これがいちばんかっこいい」という直感に導かれた選択だった。その直感は無邪気であると同時に、白人ロックの閉じた純度を壊そうとする衝動でもあった。

しかし『Café Bleu』におけるそれらの要素は、決して濃密に再現されることはない。グルーヴは軽く、音数は抑えられ、感情は過剰に煮詰められることなく、表面をすべるように配置される。アメリカのソウルやジャズが持つ「深さ」や「歴史」をそのまま引き受けるのではなく、それらを一度冷まし、薄め、ロンドンの空気に通す。その結果生まれるのは、厚みよりも間合い、情熱よりも抑制が支配するサウンドである。

この距離感は、80年代初頭のイギリスの社会状況と無関係ではない。サッチャー政権下の緊縮、失業、階級の緊張のなかで、豊かさや熱狂を正面から肯定することは難しかった。だからこそ『Café Bleu』は、情熱を誇示する代わりに、洗練や知性、都市的な軽さを選ぶ。その選択は逃避ではなく、むしろ「なりきれなさ」を引き受ける誠実さに近い。

興味深いのは、このアルバムのフォームが薄く設計されている一方で、ウェラー自身の姿勢は驚くほど硬質でまっすぐだという点である。彼はスタイルを皮肉として扱わない。ジャズやソウルを引用しながらも、距離を保ったまま遊ぶのではなく、それを自分の倫理として信じ切ろうとする。その結果、音楽は軽やかでありながら、中心には強い意志が残る。このアンバランスが『Café Bleu』独特の緊張感を生んでいる。

この点で、同時代のエルヴィス・コステロのような、メタ的で自己相対化の巧みな作家とは対照的である。コステロが様式を自在に操り、ズレやアイロニーを作品の一部として織り込むのに対し、ウェラーはズレたまま前に出る。わかってやるのではなく、信じてやる。その単線的な賭けが、成功と失敗の振れ幅を大きくし、ファンの側に「作品以上に人物を信じる」態度を生み出してきた。

『Café Bleu』は、完成された名作というより、移行期のスケッチに近い。曲ごとの完成度にはばらつきがあり、統一感よりも仮設性が目立つ。それでもアルバム全体からは、当時のロンドンの湿度、若さと背伸びが同居する空気、そして強度を持ちきれなかった時代の正直さが立ち上がってくる。

比喩的に言えば、この作品は、洒落たカフェで出されるカツカレーのようなものかもしれない。カレーのベースは軽く、深い煮込みはないが、スパイスや素材には気が配られている。そして何より、カツだけは妥協なく、本気で揚げられている。そのカツこそが、ウェラーの倫理であり、信じ切る姿勢である。ベースの薄さとトッピングの強度、そのズレによって一皿は成立し、忘れがたい印象を残す。

『Café Bleu』のリアリティは、強度や本物性を誇示しないところにある。深くなれなかったこと、なりきれなかったこと、その宙づりの感覚を、洗練という形で差し出す。その軽さは時に物足りなく感じられるが、同時に、時代と場所に対する誠実な応答でもある。このアルバムが今も語られるのは、その未完成さが、単なる欠落ではなく、ひとつのリアリズムとして成立しているからだろう。

その象徴的な一曲が、語りとビートを中心に据えたゴスペルという名の楽曲である。ラップのように聴こえるそのヴォーカルは、後年のヒップホップ的語法を先取りしているようでありながら、実際には黒人教会音楽の説教的リズムを下敷きにしている。ここでもウェラーは、形式を正確に再現することより、響きとして「今、都市で鳴っている話法」を直感的に掴み取っている。その結果、この曲はジャンルの正統性からも、ロック的高揚からも距離を取り、言葉が宙に置かれたような独特のリアリティを生む。

この語りの感覚は、後年のウェラーの成熟と静かにつながっていく。年齢を重ねた彼は、声を張り上げることや、スタイルの更新を誇示することから距離を取り、リズムの中に言葉を置くような歌い方へと向かう。そこでは若い頃の硬質な倫理は失われていないが、主張は前に出すものではなく、時間をかけて滲ませるものへと変わっていく。『Café Bleu』における語りは、その未来を予感させる最初の身振りだったとも言える。

この接続が示しているのは、成熟とは必ずしも重厚さや円熟味を意味しない、という事実である。軽さを手放さず、薄さを否定せず、そのまま時間を引き受けていく。ウェラーの歩みは、若さを捨てることで大人になるのではなく、若さの未完成さを抱えたまま年を取る、もうひとつの成熟のかたちを示している。その意味で『Café Bleu』は、単なる過渡期の作品ではなく、後年へと続く「年の取り方」の原型を、すでにここに刻み込んでいる。

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