混成の幸福学 ― スーパーヘヴィ、ミック・ジャガー、そしてレゲェがほどく純粋性神話

音楽

美術や音楽において「純粋性」は、しばしば神話的な権威として機能してきた。ルーツ至上主義とも言うべき価値観のもとで、ジャンルは特定の土地、民族、歴史的共同体と強く結びつけられ、その内部性こそが正統性の条件とされる。レゲェはジャマイカの土壌から生じた音楽であり、アニメ文化は戦後日本のサブカルチャーの内部で熟成された ─ こうした語りは確かに歴史理解の基礎である。しかし同時に、純粋性を守るという名目のもとで、混成によって生じる創造の力や快楽が見落とされてきたのも事実だろう。

 その神話を軽やかに乗り越える視点として、ここでは「カツカレーカルチャリズム」という概念をあらためて導入したい。異なる文化を“正しく”分け隔てるのではなく、あえて混ぜる。混ざることでそれぞれの純度は下がるが、その代わりに、単独では得られなかった新しい旨味が立ち上がる。とんかつとカレーと白飯が出会うことで生まれる、説明不能だが確実に幸福な味覚 ─ その感覚を文化生成の比喩として引き受ける態度である。

 2011年に始動したプロジェクト「SuperHeavy」は、このカツカレーカルチャリズムを音楽的に体現した、きわめて示唆的な実例である。スーパーヘヴィ は、ミック・ジャガー、ダミアン・マーリー、ジョス・ストーン、A.R.ラフマーンという、ジャンルも文化圏も大きく異なる四者によって構成された。発案の中心にいたのはミック・ジャガーであり、長年の協働者であるデイヴ・スチュワート(ユーリズミックス)とともに、「ひとつのジャンルに回収されない音楽」を構想したことが出発点だった。

 ここで重要なのは、このプロジェクトが単なる“異色コラボ”として思いつきで編成されたわけではないという点である。ミック・ジャガーは1970年代以降、レゲェやダブ、ワールドミュージックに深い関心を持ち続けてきた人物であり、ローリング・ストーンズの音楽自体が、ブルース、R&B、レゲェ、ファンクを混交させながら拡張されてきた歴史を持つ。その彼が、あらためて「ジャンルを横断する場」を意識的につくろうとしたこと自体、成熟した段階での実験だったと言える。

 メンバー選定もまた、きわめて象徴的である。ダミアン・マーリーは、ボブ・マーリーの息子という血統を背負いながら、ヒップホップ以降の感覚を取り入れたレゲェを更新してきた存在であり、レゲェ文化の内部者であると同時に、その純粋性を揺さぶる存在でもある。ジョス・ストーンは、白人女性でありながらブラック・ミュージックへの深い理解と身体性を持ち、ソウルを「外部者として生きる」表現者である。そして A.R.ラフマーンは、インド映画音楽を基盤にしながら、西洋音楽理論と民族音楽的要素を自在に往還する、いわば非西洋モダニズムの象徴的存在だ。

 この四者が同席することで生まれたのは、いずれかのジャンルに“帰属”する音楽ではない。レゲェでもなく、ロックでもなく、ソウルでもなく、ワールドミュージックという既存の棚にも収まらない、宙づりの音楽空間である。レゲェ界の正統性の基準から見れば、スーパーヘヴィ のサウンドは確かに本流から距離がある。しかしそれは、レゲェの価値を希釈したというよりも、レゲェという文化コードを他の音楽言語と重ね合わせることで、異なる輝度を持った音像を生み出したと理解すべきだろう。

 ここで注目すべきなのは、ミック・ジャガーの立ち位置である。彼はレゲェを愛する外部者であり、決して内部者になろうとはしない。その距離感が、レゲェ本来の重力を、独特の軽やかさへと変換している。そこにダミアン・マーリーという内部者が加わることで、音楽は空中分解せず、一本の背骨を獲得する。外部者の遊戯性と内部者の重力が共存する「幸福な中間地帯」。これはまさに、カツカレーカルチャリズムが指し示す創造の場である。

 この構造は、美術における村上隆のアニメ/オタク文化へのアプローチと驚くほどよく似ている。村上はアニメ文化の単なる消費者ではないが、同時に純粋な内部者とも言い切れない。彼は戦後日本文化への愛情を持ちながら、現代美術の制度を熟知した美術界の内部者であり、その二重の立場からアニメ的記号を引き受ける。線、色彩、キャラクター、眼差しといった要素をアプロプリエーションしつつ、それらを美術制度という異なる文脈へと移し替える。

 重要なのは、それが原作やオタク文化への裏切りではなく、文化の象徴性を別の場で再配置する行為である点だ。アニメを純粋な形で保存するのではなく、外部の制度と接触させることで、新しい表象空間を生み出す。この態度は、まさにカツとカレーを分離せず、ひとつの皿に盛りつける行為に等しい。混ぜにくいものを混ぜることで、二層の旨味が立ち上がる。

出典:Artpedia/村上隆

 スーパーヘヴィ と村上隆に共通するのは、内部者/外部者という二項対立を停止させ、「第三のナラティヴ」を生成している点である。完全な内部性はしばしば文化を硬直させ、外部性はしばしば軽薄と見なされる。しかしカツカレーカルチャリズムは、その境界線上にこそ快楽と批評性が宿ると考える。外部者のまなざしは野暮であると同時に新鮮であり、内部者の知は重厚であると同時に惰性的でもある。その摩擦が火花を生み、既存の純粋性の物語を相対化する。

 さらに言えば、ここには明確な「幸福」の感覚がある。混成は必ずしも高尚ではないが、身体的で、即物的で、否定しがたい快感を伴う。スーパーヘヴィ の音楽が持つ推進力、村上隆の作品が放つ視覚的快楽はいずれも、純粋性の尺度では測れない。しかし、混ぜることでしか得られない“おいしさ”がそこにはある。

 美術や音楽が純粋性の神話から自由になるとき、文化はより軽やかに、より混成的に、より幸福に進化する。スーパーヘヴィ のプロジェクトが示したのは、グローバル化の表層的な多文化主義ではなく、混ざること自体を肯定する創造の倫理である。村上隆のアニメ、レゲェの越境、そしてカツカレーという料理が教えてくれるのは、ただひとつの単純な真理だ。

 混じるからこそ、おいしい。
 混じるからこそ、新しい。
 混じるからこそ、世界は豊かになる。

 文化とは、本来ひとつの皿の上で、自由に混ざり合うべきものなのだ。

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