二十世紀音楽において「原始的」という言葉ほど、歴史的な要請を見えにくくしてしまう評価語はない。原始性は気分や趣味として選ばれたのではなく、ある局面ごとに、ほとんど不可避的に要請されてきた。その理由を見落とすと、《春の祭典》や《カルミナ・ブラーナ》は単なる野蛮な音楽、あるいは分かりやすい効果音楽として誤解されてしまう。とりわけイーゴリ・ストラヴィンスキー《春の祭典》(1913)とカール・オルフ《カルミナ・ブラーナ》(1935–36)は、しばしば強烈なリズムや打撃的な響きゆえに同列に語られる。しかし両者の原始性は、単に野蛮さや力強さを共有するという次元にとどまらない。それは近代によって切断された「身体」と「世界」との関係を、異なる仕方で再構成しようとする試みであり、その向かう先には決定的な差異が存在する。
《春の祭典》が初演時に引き起こした騒動は、単なる前衛性への拒否反応ではなかった。それは十九世紀的な近代音楽の流れそのものが、内部から行き詰まりを露呈した瞬間でもあった。後期ロマン派において和声は極度に肥大化し、主観的感情表現は飽和点に達していた。もはや『より強い感情』『より深い内面』を積み重ねるだけでは、新しさを生み出せない。そこでストラヴィンスキーが選んだのが、表現の高度化ではなく、時間感覚と身体感覚そのものを破壊するという方法だった。そこでは拍子は頻繁に切り替わり、アクセントは予測不能に配置され、旋律は断片化される。聴き手は安定した時間感覚を奪われ、身体の拠り所を失う。ここで立ち上がる原始性とは、回復された共同体の祝祭ではなく、むしろ近代社会の深層に抑圧されてきた暴力的衝動の露呈である。異教的な儀礼を題材としながらも、そこに神的な救済や超越は現れない。儀式は空洞化し、残されるのは犠牲の身振りだけだ。《春の祭典》の原始性とは、神を失った後になお身体が繰り返してしまう運動、その不気味な持続にほかならない。

一方、《カルミナ・ブラーナ》の原始性は、まったく異なる歴史的要請から生まれている。第一次世界大戦を経たヨーロッパでは、前衛音楽は専門化・知識化を進め、音楽は急速に『分かる者だけのもの』になりつつあった。オルフが問題にしたのは、この断絶である。《カルミナ・ブラーナ》の原始性は、前衛への反動というよりも、音楽が社会と再接続するための戦略だった。そのため、リズムは明確で、反復され、誰もが即座に身体で理解できる形を取る。明確な拍、反復されるリズム、合唱によるユニゾン。ここでは身体は迷わず、音楽は即座に高揚をもたらす。オルフが志向したのは、近代音楽が高度化する過程で失われた「誰もが参加できる音楽」の回復だった。中世の世俗詩を素材にしながら、彼が描き出すのは人格神との交感ではなく、運命の輪に象徴される循環的な世界観である。超越的な神に向かうというよりも、世界のうねりに身を委ねる身体。その意味で《カルミナ・ブラーナ》の原始性は祝祭的であり、共同体的である。
この差異は、日本の祭囃子や神楽を想起すると、より鮮明になる。囃子において音は神を呼び、場を変容させ、人を憑依状態へと導く。音楽は表現ではなく媒介であり、超越的存在と此岸を接続する実効性をもつ。これに対し、《春の祭典》や《カルミナ・ブラーナ》は、超越へ至る回路が断たれた後の音楽である。にもかかわらず、それらが囃子と響き合って聴こえるのは、踏む、打つ、繰り返すといった身体の型が、宗教以前の記憶として残存しているからだ。神は来なくとも、身体はその準備運動を忘れていない。

二十世紀後半以降、この「神なき原始性」は別の形で更新されていく。ここでも原始性は、停滞や行き詰まりの後に要請される。ロックやポピュラー音楽においても、革新が一定の臨界点に達すると、複雑さや内省性そのものが重荷となり、身体性への揺り戻しが起こる。原始性は後退ではなく、システムを再起動するためのリセット装置として現れる。ロックや電子音楽において、身体性は再び前景化するが、それは信仰の回復ではなく、不安や政治、集団心理の可視化として現れる。レディオヘッドの場合、《OK Computer》から《Kid A》《Amnesiac》にかけて、ロックの解体と電子化は極限まで推し進められた。主体は溶解し、リズムはプログラム化され、音楽はほとんど環境音に近づく。革新は成功したが、その代償として『身体がどこに立っているのか分からない』状態が生まれた。ここで現れた《Hail to the Thief》(2003)は、その揺り戻しとしての原始性である。『Hail to the Thief』における重ねられたドラムの執拗なビートは、論理的な抗議ではなく、ざわめく群衆の足並みを思わせる。そこにあるのは祝祭ではなく、不穏な共有である。個人の内面は溶解し、音楽は集団的な緊張を身体に刻み込む。


ビョークの《Volta》(2007)も同様に、革新の臨界点の後に置かれている。『Vespertine』で内面は極限まで微細化され、『Medúlla』では声という最小単位にまで還元された。これ以上削ることはできない地点で、彼女は再び外へ踏み出す。そのとき選ばれたのが、電子的でありながら行進的なビートだった。『Volta』の原始性は、実験の放棄ではなく、実験を生存可能な形へと戻すための揺り戻しである。『Volta』は、さらに異なる位相で原始性を提示する。電子的に生成されたビートと金管の響きが作り出すのは、未来的でありながら行進的な身体感覚だ。ここでの原始性は、過去への回帰ではなく、テクノロジーを通過した後に再起動される生命力である。《春の祭典》の断絶や《カルミナ・ブラーナ》の祝祭性を歴史的に知った上で、それでもなお前に進もうとする足取り。そのため『Volta』は聴きやすく、同時に評価が割れる。深刻な問いを期待する耳には軽く聴こえ、身体の肯定を求める耳には力強く響く。


こうして振り返ると、原始性とは単一の価値ではなく、近代以降の文化が繰り返し要請してきた「身体の再編装置」であることが分かる。近代化、専門化、高度化が一定の水準に達すると、文化は自らを維持できなくなる。その臨界点で呼び出されるのが、意味以前に身体を動かす原始性なのだ。破壊としての原始性、祝祭としての原始性、そして再起動としての原始性。それらはいずれも、意味や理性の手前で人を動かす力を持つ。
この流れを、あえて「カツカレーカルチャリズム」という比喩で言い換えるならば、洗練された理論や精緻な実験を重ねた末に、人は再び濃く、熱く、分かりやすいものを欲するということだろう。高級なフルコースを経た後に、身体が求めるのはカツカレーの確かな重みである。《春の祭典》も《カルミナ・ブラーナ》も、そしてレディオヘッドやビョークのいくつかの作品も、文化が飽和した地点で差し出されるその一皿だ。ただし素材は粗野ではなく、調理は高度である。だからこそ、それらは単なる後退ではなく、文化が生き延びるための知恵として機能する。
原始性とは、失われた過去への郷愁ではない。それは、超越が不在となった世界においてもなお、身体が世界と接続し続けるための、最後の、しかし最も確かな回路なのである。


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