

継承としてのベースライン ― 70年代ファンクの記憶が再起動するとき
スライ&ザ・ファミリー・ストーンの〈Thank You〉を聴くと、まず耳を掴むのは、跳ねながらも粘りつく独特のグルーヴである。この“跳ねるポップと粘るファンク”の共存こそ、70年代以降の黒人音楽を支える背骨となり、ジャズ、ソウル、R&Bからヒップホップへ至るまでの諸ジャンルに長い影響を落としてきた。
そして1989年、ジャネット・ジャクソンの〈Rhythm Nation〉がリリースされたとき、聴き手が思わず引き寄せられたのは、まさにそのスライのベースラインの“霊圧”とも呼ぶべき既視感であった。リズム処理は驚くほど近く、単純な引用でも偶然の一致でもなく、音の底を流れる精神的な川筋の合流点のようでもある。
当時のR&Bシーンはニュージャックスウィングの跳ねる電子性に満ちていたが、ジャム&ルイスのプロダクションはその跳ね方をファンクの身体性と結びつけて扱っている。したがって〈Rhythm Nation〉のベースラインは、新しさを装いながら古い熱を抱え込む二重構造を持つ。70年代ファンクという文化の“核”が、電子的未来感の内部で再起動しているのである。
この再起動は単に音楽的継承ではなく、アフロディアスポラ文化に特有の「精神の持続」の一形態である。スライが放った“Be Yourself”という強烈な自己肯定の哲学は、ブラック・アーツ運動や公民権闘争とも共鳴し、音楽が政治的実践であることを示していた。一方でジャネットの掲げた“Nation”は、この個の哲学を共同体的精神へと拡張し、自分自身を肯定することがコミュニティの力へと転化する構造を提示した。
こうして〈Rhythm Nation〉に現れる〈Thank You〉的ベースラインは、音の引用ではなく黒人音楽の精神的遺伝子の発現として理解すべきものになる。

“Rhythm Nation”という思想 ― 音楽で国家をつくるという企て
〈Rhythm Nation〉という曲名は、単なるキャッチーな語呂ではない。アフロディアスポラの歴史において、国家から排除されてきた人々がつくりあげたのは “文化内部の国家”——土地も言語も奪われても最後に残ったのが身体のリズムであり、そのリズムを中心に形成される精神的共同体であった。
したがって“Rhythm Nation”は、音楽こそが国家でありうるという宣言であり、奴隷制以来続くディアスポラの断絶をつなぎなおす儀式的機能を帯びている。
スライの〈Thank You〉が示したのは、まず「立ち上がる個」の力だった。ジャネットの〈Rhythm Nation〉は、その個を束ね、“連帯としてのリズム”を提示する。ベースラインが一致して聴こえるのは、二人の作品が 同じ川の異なる地点で響く水音 だからだ。
アフロディアスポラにおいて音楽は、政治、宗教、生活、抵抗、共同体形成を同時に担ってきた総合的実践であり、〈Rhythm Nation〉が持つ未来的電子音と過去のファンクの記憶の共存は、まさに時間の複数層を束ねる文化の力を具現化する。
過去と未来は融合ではなく、緊張を孕んだ並置のまま一つの身体へと配置される。ここにディアスポラ文化の核心がある。

プリンスという媒介者 ― “黒いモダニティ”の結節点として
この精神の流れを80年代に架橋した中心人物として、プリンスの存在は欠かせない。彼はスライの直系の継承者であり、ファンクの躍動、ソウルの香り、ロックの攻撃性、電子音の未来性をひとつの身体の中で交差させた。
プリンスがデルフォニクスやスタイリスティクスをカヴァーしたのは、単なる趣味や回顧ではなく、アフロディアスポラ文化における 「祖先と対話する音の儀式」 だった。黒人音楽におけるカヴァーとは“引用”ではなく“継承”であり、音に蓄積された歴史へ自らの身体を接続する行為である。
さらに重要なのは、ジャム&ルイスがプリンスの下で成長し、そこからジャネットのプロデュースへとつながったという事実である。
スライ → プリンス → ジャム&ルイス → ジャネット
という流れは、ディアスポラ文化において継承が 師弟関係と音の記憶 の二重構造で進むことを示している。
ベースラインという根源的要素がこの流れのなかで受け継がれるのは、偶然ではなく文化の必然であった。

混ざりと並置のディアスポラ、そしてカツカレーカルチャリズム
ヒップホップへ向かう一筋の川の深層地質
アフロディアスポラ文化は、異質なものを混ぜ合わせる柔軟性と、混ざらないものを並置したまま意味を発生させる強靭な構造の 両方 を持つ。
スライ・ストーンのファンクは、リズムと声と祈りが一つの鍋で煮えたぎりながらも、具材が完全に融合しない“混淆”の文化だった。プリンスのミネアポリス・サウンドはその混淆を極限まで推し進め、電子とゴスペル、ロックとファンクを異なる火加減のまま束ねる。
この状態はまさに 文化的カツカレー に等しい。カレーが煮込みとしての時間を持ちながら、カツが独自の食感と温度を保つことで、融合しきらない複数の層が一皿で共存する。その“混ざらなさ”から新しい文化的味わいが立ち上がる。
ヒップホップはこの美学をさらに極端化し、サンプリングという“並置の技法”を中心に発展した。過去の音源を混ぜるのではなく、隣に置く。
すると音楽は、過去が現在の街角で鳴っているような時間の折り畳みを実現する。ここでは、混然としたカレーと、皿の端でサクサクと独立したカツの境界がそのまま味わわれる。
つまりヒップホップは 並置の知性の完成形 であり、ディアスポラ的思考の極北である。
〈Rhythm Nation〉は、この“混ざり”と“並置”の二つの方法論を一曲の内部で成立させている。70年代ファンクの記憶と80年代電子ビートが混ざらず、しかし断絶せず緊張を保つ構造は、辛味のスパイスと油分の異なる音響的熱量が一皿に同居するカツカレーのようである。
この緊張こそが文化的層を立ち上げ、曲の中に歴史が可視化される瞬間を生む。
この流れはやがてヒップホップへ自然に接続され、ケンドリック・ラマーのようにジャズ、ファンク、黒人史、個人の痛みを“具材として”一曲に並置するアーティストへと受け継がれていく。
彼の作品は各素材が完全に溶けず、ジャズの金管の生々しさ、808の低音の電子的未来、語りの歴史的傷痕がそれぞれ固有の時間を生きている。
この多層性はディアスポラ的であり、同時に カツカレーカルチャリズム的美学の最先端 とも言える。

川の流れとしての精神 ― 音楽が文化記憶の装置となる瞬間
スライに始まり、プリンスを経てジャネットに再符号化され、ヒップホップへと流れ込む精神は、一筋の川のように黒人文化の内部を流れ続けている。その川を貫くのが、ベースラインという最も根源的な身体的リズムである。
二十年隔てた曲が同じ水音を響かせるのは、ディアスポラの精神が 時代ごとに熱量を変えながらも連続して流れる からだ。
この水音はまた、皿の上で異なる具材が独自の音を立てながら共存するカツカレーの美学にも重なる。混ざりと並置の両方を自在に扱うディアスポラ文化の本質がそこに息づき、音楽が文化記憶の装置として働く瞬間が刻まれているのである。


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