都市に放電する音楽 ―『ニューヨークのアストル・ピアソラ』と混在の衝動

音楽

タンゴという形式の内破

アストル・ピアソラの音楽は、しばしば「タンゴの革新」と要約されるが、実際に起きているのは革新というより形式の内破である。伝統的タンゴにおいては、旋律と伴奏、リズムと情緒の役割分担が明確であり、音楽はダンスという身体的機能と結びついていた。拍節は安定し、フレーズは反復可能な単位として構成される。

しかしピアソラは、タンゴを構成していたこれらの前提を、外部から破壊するのではなく、内部から過剰化させる。旋律は単線であることをやめ、対位法的に増殖する。伴奏は和声支持を放棄し、独立した発話主体となる。リズムは拍を提示しながら、その拍を裏切る。このときタンゴは、もはや「踊るための音楽」ではなく、「時間が裂ける音楽」へと変質する。

『ニューヨークのアストル・ピアソラ』では、この内破がまだ制御されていないかたちで現れている点が重要である。後年のような形式的完成やドラマ設計よりも、構造が壊れながら生成していく瞬間が、ほぼ未加工のまま記録されている。

ニューヨーク的音響空間と即応性

このアルバムにおける最大の特徴は、構造が完成される前に音が出てしまうという即応性にある。楽曲の多くは、明確な主題提示と展開という古典的語法よりも、短いフレーズの連鎖、突然の転調、リズムの切断によって進行する。

これは作曲技法の未成熟ではない。むしろ、ニューヨークという都市に固有の音響環境が、思考よりも先に反射を要求する条件を生んでいる。ジャズの即興、ストリートノイズ、ダンスホールの反復、現代音楽の断絶が、同時に耳に入る環境では、音楽は「構築」される前に「応答」される。

その結果、楽曲内部ではしばしば、
・調性が確立する前に崩れる
・フレーズが完結する前に別の素材が侵入する
・拍節が身体に定着する前に変形される
といった現象が連続する。この不安定さこそが、アルバム全体に漂うスパーク感の正体である。

旋律の複数化と時間の分裂

音楽的に特筆すべきなのは、旋律処理である。ピアソラはこの時期、明確な主旋律と副次的素材の序列を意図的に曖昧にしている。バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノが、それぞれ異なる旋律的身振りを同時に提示し、どれが主でどれが従かが確定しない。
この書法は、単なるポリフォニーではない。バッハ的対位法のように機能的に統合されるのではなく、複数の時間意識が並走する状態を作り出している。ある声部は前進し、別の声部は逡巡し、さらに別の声部は突然遮断される。結果として、聴き手は単一の時間軸を失い、音楽を「追う」ことを強いられる。
この感覚は、アイヴスの同時多発的書法と明確に共振する。ただしアイヴスが距離化や皮肉を伴うのに対し、ピアソラの多声性は常に切実であり、感情の分裂として鳴っている。

リズム操作と身体性の宙吊り

リズムに関しても、このアルバムは極めて示唆的である。タンゴ特有の拍感は提示されるが、安定しない。アクセントはずらされ、シンコペーションは過剰化され、突然の休止や加速が挿入される。

重要なのは、これが完全に抽象化されたリズム操作ではない点である。リズムは常に身体を誘うが、その直後に裏切られる。踊ろうとする身体が、次の瞬間に足場を失う。この「身体性の宙吊り」が、切迫感と快楽を同時に生む。

後年のピアソラでは、この宙吊りはより設計された緊張として現れるが、『ニューヨークのアストル・ピアソラ』では、ほとんど制御不能な衝動として露出している。

マーラー/アイヴス/ラウシェンバーグとの構造的類似

このアルバムの構造は、20世紀初頭のマーラー的世界像と明確な連続性をもつ。マーラーが交響曲の内部に異質な音楽を持ち込み、統合しないまま並置したように、ピアソラも異なる音楽的言語を調停せずに共存させる。
美術においては、ロバート・ラウシェンバーグのコンバインが最も近い参照点となる。異物が貼り付けられているが、それらは象徴や引用として機能する以前に、「そこにあるもの」として存在している。ピアソラの音楽もまた、ジャンルを引用しているのではなく、ジャンルがそのまま身体化されて鳴っている。

カツカレー的構造としての混在

この混在を説明する比喩として、「カツカレー」は単なる言葉遊びではない。音楽的には、異なる機能体系が相互に還元されず、別個の論理を保持したまま同一時間に配置される構造を指している。
タンゴのリズム論理、ジャズ的フレージング、クラシック的対位法、即興的断裂。それらは融合されず、しかし排除もされない。その緊張が破綻ではなく快楽として知覚される点に、この音楽の革新性がある。
『ニューヨークのアストル・ピアソラ』は、意図的に設計されたカツカレーではなく、衝動がそのまま盛り付けられた初期形態である。完成度より密度、調和より並置が優先されている。

放電としての生成記録

このアルバムは、後年の代表作のような完成度を持たないかもしれない。しかし、ピアソラが何と戦い、何を引き受け、どのような速度で音を出していたのかを、これほど生々しく伝える作品は他にない。 ここに刻まれているのは、ナショナル・アイデンティティとパーソナル・アイデンティティが噛み合わないまま走り続ける身体の記録である。統一を拒み、混在を引き受け、放電し続ける音楽。その生成の現場が、『ニューヨークのアストル・ピアソラ』なのである。

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