生成は条件に耐えられるか ― オーネット・コールマン《チャパカ組曲》について

音楽

ゴールデン・サークルと《チャパカ組曲》─ 生成の極点と条件化された場

オーネット・コールマンを語る際、しばしば象徴的に引き合いに出されるのが《At the Golden Circle Stockholm》(1965)である。これはストックホルムの小さなクラブ〈ゴールデン・サークル〉で行われたライヴ録音で、デヴィッド・アイゼンソン(ベース)、チャールズ・モフェット(ドラム)とのトリオ編成による演奏が収められている。ここで聴かれる音楽は、楽曲構造やコード進行といった従来のジャズ的枠組みをほぼ解体しつつ、しかし無秩序に崩壊することはなく、演奏者同士の鋭敏な判断と応答によって、その瞬間ごとに音楽が「立ち上がっていく」感触を強く残す。聴き手にとっても、完成された作品を受け取るというより、生成の現場に立ち会う経験に近い。

一方、《チャパカ組曲(Chappaqua Suite)》(1966)は、コンラッド・ルークス監督による映画『チャパクア』のために構想されたサウンドトラック作品である。制作背景には、映像に付随する音楽としての役割、編集や上映時間に対応する必要、映画という制度的なフレームが存在していた。つまり、ここでは音楽はあらかじめ設定された「場」と「条件」に晒されている。ライヴにおける即時的な生成とは異なり、録音・編集・再生を前提とした環境の中で、オーネットの音楽がどのように振る舞うのかが問われることになる。

この二つはしばしば同一の作曲家による別作品として並べられるが、むしろ《ゴールデン・サークル》が生成の極点を示す地点であるのに対し、《チャパカ組曲》は生成が制度や条件の中に置かれたときに何が起こるのかを示す、実験的なケースと考える方が見通しがよい。本稿では、この対照を起点に、フリージャズを「様式」ではなく「生成の態度」として捉え直し、さらにそれをセザンヌ、ポロック、そしてカツカレーカルチャリズムへと接続していく。

出来事としてのフリージャズから、条件としての音楽へ

オーネット・コールマンの音楽は、しばしば「その場で生成される」という言葉で語られてきた。即興、自由、解放といった語彙は、彼の演奏を特徴づけるために繰り返し用いられてきたが、それらは同時に、オーネットを特定の文脈へと閉じ込めてもきた。フリージャズとは、制約を拒否し、瞬間のエネルギーを爆発させる音楽である――この理解は、たしかに《ゴールデン・サークル》のようなライヴ録音においては説得力を持つ。

しかし、オーネットが映画音楽として構想した《チャパカ組曲》に触れるとき、その理解は揺さぶられる。ここには、ライヴ特有の緊張感も、即時的な観客との相互作用もない。音楽はあらかじめ設定された上映時間と編集構造のなかに置かれ、繰り返し再生されることを前提としている。にもかかわらず、《チャパカ組曲》はフリージャズの精神を失ってはいない。この作品は、生成が条件づけられた場に置かれたとき、どのように姿を変えるのかを問う、極めて実験的な試みである。

ゴールデン・サークル ― 生成が露出する場

《ゴールデン・サークル》でのオーネットの演奏は、生成の倫理がむき出しになった瞬間として記憶されている。音は構造に回収される前に鳴り、判断は反省を待たずに次の判断へと接続される。ここでは、音楽は作品になる以前に出来事として成立してしまう。失敗も成功も等価であり、その不可逆性こそが演奏の強度を支えている。

この状態は、ジャクソン・ポロックがキャンバスの上で行った行為と重なる。ポロックのドリッピングは、偶然に身を委ねているように見えながら、実際には一滴ごとの判断の連続である。没入とは恍惚ではなく、緊張の持続であり、そこでは完成像は常に先送りされる。オーネットのライヴもまた、完成を目指すのではなく、生成が続いている状態そのものを作品として提示している。

ジャクソン・ポロック

《チャパカ組曲》 ― 生成を条件に置く

《チャパカ組曲》が置かれた状況は、これとは根本的に異なる。サウンドトラックという形式は、音楽に対して明確な制約を課す。音は映像を支え、過剰に意味を主張してはならない。時間は編集によって分節され、演奏は反復可能な記録として固定される。ここでは、音楽は出来事であるよりも、環境として機能することを求められる。

オーネットがこの条件を引き受けたことは重要である。彼は生成の倫理を放棄したのではなく、それを制約のある場に持ち込んだ。結果として、《チャパカ組曲》の音楽は爆発的なエネルギーではなく、揺らぎとして持続する。音は前面に出ることなく、しかし消えることもない。その存在は、場のなかで呼吸するように保たれている。

現象学的視点 ― 知覚が立ち上がる場

この変質は、現象学的に理解することができる。フッサールの言うエポケー、すなわち意味や物語を括弧に入れる態度は、《チャパカ組曲》において自然に実践されている。音楽は何を表現しているかではなく、どのように現れているかとして経験される。

メルロ=ポンティの視点に立てば、音は対象ではなく、聴取という身体的行為のなかで生起する出来事である。映画館という空間、映像との関係、聴き手の注意の向け方によって、《チャパカ組曲》は毎回異なる仕方で立ち上がる。生成は即興の内部から、知覚の側へと移動しているのである。

セザンヌ的制作との類似

この態度は、セザンヌの制作と強く共鳴する。セザンヌは対象を前にしながら、それを確定した形として描くことを拒み続けた。色面は揺れ、輪郭は定まらない。彼が描いていたのは、対象そのものではなく、見るという行為が成立する瞬間であった。

《チャパカ組曲》におけるオーネットもまた、音楽を完成したメッセージとして提示しない。彼が整えているのは、音が鳴りうる条件であり、そこに置かれた聴き手の経験である。生成は、制作の内部ではなく、経験の内部で続いている。

セザンヌ:自画像

カツカレーカルチャリズムとの接続

この意味で、《チャパカ組曲》はカツカレーカルチャリズムの文脈とも接続しうる。異なる要素は統合されるのではなく、輪郭を保ったまま並置される。フリージャズの生成性と、サウンドトラックという条件芸術は溶け合わず、しかし衝突もしない。そのクールな距離感こそが、作品に余剰を生み出している。

《ゴールデン・サークル》が生成の幸福を前景化した作品であるなら、《チャパカ組曲》は生成が環境化されたときに生まれる別種の幸福を示している。それは、過剰に盛り上がることも、意味を語り尽くすこともない、しかし確かに美味しさを残す音楽である。

フリージャズという問題系 ― 様式ではなく倫理

フリージャズはしばしば、一つの音楽様式、あるいは1960年代特有の歴史的現象として整理される。しかしオーネット・コールマンを中心に据えて考えるなら、フリージャズは様式ではなく、制作に対する倫理であると言ったほうが正確である。それは「何を演奏するか」ではなく、「どのように音が生まれる状況を引き受けるか」という問いに関わっている。

フリージャズにおいて否定されているのは、形式そのものではない。コード進行や拍子、テーマが排除されているわけではなく、それらが音楽の行方を事前に決定してしまうことが拒まれているのである。オーネットの演奏には、旋律的な核も、反復も存在する。ただしそれらは、次に何が起こるかを保証しない。形式は支えとして存在するが、指令にはならない。

この態度は、セザンヌが遠近法やデッサンの規範を知り尽くした上で、それらに最終判断を委ねなかったことと同型である。技法は準備されるが、決定は常にその場に留保される。フリージャズとは、未決定の状態を持続させるための、高度に訓練された実践なのである。

セザンヌ:サント=ヴィクトワール山

生成の持続 ― ゴールデン・サークル再考

《ゴールデン・サークル》におけるオーネットの演奏は、しばしばテンションや熱狂の高さによって語られる。しかし本質は、音楽が高揚している点ではなく、判断が途切れない点にある。演奏者は常に、直前に鳴った音との関係を引き受けながら、次の一音を選び続けている。

この状態は、ポロックの制作における「没入」と重なる。ポロックは無意識に身を任せていたのではない。むしろ、重力、粘度、身体の動きといった外部条件を引き受けながら、次の動作を選び続けていた。重要なのは、結果ではなく、判断の連鎖が切れないことである。

フリージャズが危うさを孕むのは、この判断の持続が破綻した瞬間に、音楽が単なる混乱へと転落するからである。だからこそ、フリージャズは自由であると同時に、極めて厳しい音楽でもある。自由とは、選択肢が多いことではなく、選び続ける責任を引き受けることだからである。

ジャクソン・ポロック

サウンドトラックという転位 ― 生成の場所が変わる

《チャパカ組曲》において起こっているのは、生成の消失ではなく、生成の場所の転位である。ライヴでは、生成は演奏者の身体と即時的な相互作用のなかにあった。サウンドトラックでは、その場は聴取の側へと移動する。

映画という制度は、音楽に対して沈黙を要求する。語りすぎず、前に出すぎず、しかし場を空洞化させない。この条件のもとで、オーネットの音楽は、主張ではなく、余白として機能する。その余白は、映像と音、観客の注意のあいだに生じる微細なズレとして経験される。

ここで生成されているのは、旋律ではなく、関係である。音楽は完結した意味を持たず、しかし出来事が起こりうる場を静かに支えている。

セザンヌ/ポロック/オーネット ― 生成の系譜

セザンヌ、ポロック、オーネットを貫く共通点は、完成像を先に置かない制作態度にある。彼らは未完成を目指したのではない。完成を結果として受け取ることを拒んだのである。

セザンヌにとって、完成とはキャンバス上の均衡が一時的に保たれた状態にすぎない。ポロックにとって、完成とは動作が止まった地点であり、必然ではなかった。オーネットにとっても、演奏の終わりは必然ではなく、状況によって訪れる区切りにすぎない。

ここでは、作品は固定された物ではなく、生成の痕跡であると同時に、次の生成を誘発する条件でもある。

カツカレーという命名 ― 混成ではなく並置

この制作態度を説明するために、「カツカレー」という比喩は有効である。カツカレーは、とんかつ、カレー、白飯という異なる要素が、溶け合うことなく一皿に並置されている料理である。それぞれは独立したまま、しかし同時に成立している。

セザンヌの絵画において、色面は統合されずに並置される。ポロックの線は全体像に回収されず、重なり続ける。オーネットの音楽もまた、各奏者の音が一つの意味へと統合されることなく、同時に存在する。

重要なのは、そこに混乱ではなく、幸福な安定が生じている点である。要素は衝突せず、しかし調和もしすぎない。この状態は、多文化性や境界横断性を語る際の一つの理想像であり、カツカレーカルチャリズムが指し示す地点と重なる。

生成は条件に耐えられる

《チャパカ組曲》は、生成が条件に耐えうることを示した。フリージャズは、爆発する出来事としてだけでなく、経験を支える環境としても成立しうる。オーネット・コールマンは、そのことをこの作品で静かに実証している。

ここで提示されているのは、完成を拒否する自由ではない。完成を条件として手放す自由である。セザンヌ、ポロック、オーネットに連なるこの系譜は、生成を信頼することで、作品を世界に開いた。 その態度を「カツカレー」と名づけるなら、それは混成の祝祭ではなく、並置の倫理である。溶け合わず、支配せず、しかし同時に成立する。その幸福な不均衡のなかで、生成は今日も続いている。

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