統合から並置へ ― モス・デフ『The New Danger』を読む

音楽
『The New Danger』

正統の内部から現れた柔らかな緊張

1998年にタリブ・クウェリとのユニット、Black Starとして発表されたアルバムは、90年代ヒップホップのなかでも特異な位置を占めている。そこでは政治性や社会的自覚が明確に存在しながらも、過剰な闘争性や自己主張の押し出しは抑えられ、軽やかな温度のまま言葉とビートが持続する。ヒップホップの正統に属しながら、どこか余白を残したこの態度は、同時代のコンシャス・ラップのなかでも際立っていた。モス・デフはそこで、強い表現を志向しつつも、過度な統一や結論へと収斂しない声のあり方をすでに提示していたのである。

1999年のソロ作『Black on Both Sides』は、その延長線上で完成度を極めたアルバムとして位置づけられる。ソウル、ジャズ、レゲエなどの参照が滑らかに統合され、ラッパーとしての技量、思想性、編集感覚が均衡した形で提示されている。ここには、ポストモダン以後の意識を経たうえでなお様式を再構成しようとする、いわば「ポストモダン的モダニズム」の態度がある。ヒップホップという形式の内部に留まりながら、その内部を刷新する。その均整のとれた姿勢ゆえに、同作はクラシックとして受容され続けてきた。

『Black on Both Sides』

しかしこの統合の強度は、同時にある種の限界を内包していた。完成度の高さは、興味関心の拡散や衝動的な横断を必ずしも許容しない。表現が洗練されればされるほど、自然体の揺れは外部へ押し出される。モス・デフが次作で示したのは、まさにその均整からの離脱であった。

境界が溶ける場所 ―『The New Danger』という逸脱

モス・デフのセカンド・アルバム『The New Danger』(2004年)は、しばしば評価が割れる作品として語られてきた。デビュー作『Black on Both Sides』が、ヒップホップの正統的文脈を深く理解したうえで更新を試みた作品であったのに対し、このセカンドは、その「更新」という言葉自体を疑うような身振りを含んでいる。整合性や完成度、ジャンル的純度といった価値基準から見ると、確かにこのアルバムは掴みどころがない。しかし、その掴めなさこそが、この作品の核心である。

『The New Danger』には、ヒップホップ、ロック、ソウル、ファンク、スポークンワード、さらにはバンド演奏による即興的な揺らぎが混在している。それらは有機的に「融合」されているというより、むしろ互いに干渉しきれないまま並置されている印象を与える。トラックごとに音楽的前提が異なり、アルバム全体として一本の物語や統一した方向性を提示しない。そのため、リスナーは自然と「どこを基準に聴けばいいのか」という問いに直面することになる。

この違和感は、意図的な破壊というよりも、モス・デフ自身の興味関心がそのまま表出した結果として現れているように思われる。ブラックスター期やソロ1作目で見られた、ヒップホップ内部からの批評性や知的な冴えは後景に退き、その代わりに、音楽に対する身体的な欲求や、ジャンル以前のテンションが前面に出てくる。ラップが巧みであるかどうか、プロダクションが洗練されているかどうかよりも、「今ここで鳴らしたい音」が優先されている。

この点で、『The New Danger』はポストモダン的な引用やアイロニーとは距離を取っている。異なるジャンルを扱いながらも、それらをメタ的に操作する冷静さはあまり感じられない。むしろ、ロック的な粗さやバンドサウンドの不安定さを引き受けることで、作品全体が危ういバランスの上に置かれている。この危うさは、狙って作られたものというより、「自然体が露出した結果」として生じたものだろう。

そのため、このアルバムはヒップホップの「進化形」として理解するよりも、ヒップホップという枠組みから一時的に外に出た記録として捉えたほうがしっくりくる。ブラックスターで示された社会的切実さや、デビュー作におけるモダンな完成度は、ここでは一度解体される。代わりに現れるのは、黒人音楽の広い地層 ― ロック、ソウル、ブルース、パンク、詩 ― を横断する衝動であり、その横断は必ずしも整理されないまま提示される。

この未整理性こそが、『The New Danger』を一聴して戸惑わせ、時間を置いて聴き返したときに別の像を結ぶ理由でもある。最初は散漫に感じられた要素が、後になって「これは統合を拒否したアルバムだったのではないか」と反転して見えてくる。つまりこの作品は、ヒップホップが単線的な発展史を描くという前提を裏切り、複数の世界線が同時に存在する状態を、そのまま音として置いているのである。

その意味で『The New Danger』は、完成度の高いアルバムというより、過渡期の記録であり、後年の活動やコラボレーション、さらにはジャンル横断的な動きへの伏線として機能している。評価のしにくさと引き換えに、このアルバムは、モス・デフという表現者がどこに向かおうとしていたのかを、最も正直な形で示していると言えるだろう。

ゴリラズとの接続 ― 編集主体としての場

『The New Danger』の翌年、モス・デフはGorillazのアルバム『Demon Days』に参加する。ここでの共演は偶然ではなく、前作で顕在化した拡散的な姿勢の延長にある。Gorillazというプロジェクト自体、特定のジャンルに属さない編集主体的な場であり、ロック、ヒップホップ、エレクトロニカ、ポップが並置されたまま共存する。その内部でモス・デフは、ヒップホップの代表としてではなく、並置されたテンションの一つとして機能している。

この接続は、2000年代前半の文化状況とも呼応する。ジャンルの純度を競う時代から、複数の関心が同時に存在する時代へ。重要なのはどのジャンルに属するかではなく、どのような緊張や冴えが持続するかである。モス・デフはその移行を体現した存在として位置づけられる。

カツカレーカルチャリズム的視点

この流れは、多文化的な並置と余剰のなかから独自の味わいが生まれる状態、いわばカツカレーカルチャリズム的な感覚とも重なる。複数の文化や関心が統合されずに共存し、過剰な部分がそのまま残ることで、結果として固有の強度が立ち上がる。『Black on Both Sides』が整えられた一皿だとすれば、『The New Danger』は混ざりきらない具材がそのまま残った状態に近い。しかしその不均一さこそが、時間差で効いてくる余韻を生む。

Black Star期の均整と、2作目の拡散は対立ではなく連続である。統合を経験した者だけが、統合しない状態を自然に引き受けることができる。モス・デフは正統的ヒップホップの内部で精度を高めたのち、その中心を緩め、並置的な構造へと移行した。そこではジャンルの純度よりも、冴えや切実さといった表現の核が残り続ける。

自然体の持続

『The New Danger』は、完成度という尺度では測りにくいアルバムである。しかしその散らかり方、混ざり方、統合されなさは、むしろ現代的な自然体のあり方を先取りしていた。並置されたままの関心が、時間の経過とともに新たな関係を結ぶ。後から聴き返したときに立ち上がる説得力は、統合された名盤とは別種の持続を持つ。

モス・デフの軌跡は、正統から拡散への移行ではなく、統合を経た上での並置の受容といえるだろう。ジャンルの境界を越えること自体は新しくない。しかし重要なのは、越境の結果として何が残るかである。彼の場合、それは冴え、テンション、切実さといった表現の質であり、それが保たれる限り、形式の拡散はむしろ自然なものとなる。

『The New Danger』は、自然体が意図せず露出した瞬間の記録である。整えられた完成度を離れ、興味関心の並置がそのまま持続する。その揺れは一時的に評価を曇らせるが、時間を経ることで別の強度として浮かび上がる。モス・デフの2作目は、統合の後に訪れる拡散の必然を示し、並置の時代における表現のあり方を静かに先取りしていたのである。

統合の後に訪れる並置の時代 ― 多世界的状況のなかでの表現

ここまで見てきたモス・デフの変化は個人史にとどまらず、同時代の表現全体に共有される構造の一例でもある。モス・デフの1作目から2作目への移行は、単なる作風の変化ではなく、より広い文化的な転換の縮図として捉えることができる。すなわち、統合的で直線的な物語が優位にあった時代から、複数の文脈が並置される時代への移行である。20世紀後半以降の芸術は、モダニズム的な統一や純粋性をいったん疑い、引用や断片の再構成を試みてきた。しかし21世紀に入り、その段階すら通過したあとに現れているのは、引用を統合して新しい様式を作ることではなく、複数の関心や文脈が同時に存在し続ける状況そのものを引き受ける態度である。

かつては、作品はある中心へと収斂するものだった。作家の個性、時代の精神、あるいはジャンルの純度といった軸があり、それに沿って作品は統合されていく。音楽であれば、アルバムは一つの方向性や物語を持つことが求められ、絵画や彫刻であれば、様式の純度や形式の整合性が評価の基準となった。そこでは時間もまた直線的に想定され、初期から後期へと進むにつれて、作家は成熟し、様式は洗練されると考えられていた。

しかし現在、表現が置かれている状況は大きく変わっている。情報環境の変化だけでなく、文化の受容や参照の仕方そのものが多層化し、異なる時代や地域、ジャンルが同時に参照可能となった。重要なのは、これが単なる多様性の拡大ではないという点である。複数の世界が並列的に存在し、それぞれが互いを否定せずに持続する状況、いわば多世界的な感覚が前提となっている。そこでは一つの中心へ収斂する必要はなく、複数の中心が同時に存在しうる。

この状況において表現は、統合よりも並置の形式を取りやすくなる。異なる文脈や関心が一つの作品内で共存し、それらが必ずしも整合的に結びつく必要はない。むしろ、結びつかないまま隣接していること自体が、現実の感覚に近いものとして受け取られる。重要なのは、それぞれの要素が持つテンションや冴えが失われないことであり、形式的な統一は二次的な問題となる。

音楽の領域では、ジャンル横断的なプロジェクトやコラボレーションが常態化し、アルバムという形式自体も一つの物語としてではなく、複数の方向性が並置された場として機能することが増えている。モス・デフが『The New Danger』で示した散漫さは、こうした状況を先取りするものだった。ヒップホップ、ロック、ソウル、パフォーマンスが統合されないまま並び、そのなかで表現の核だけが持続する。この構造は、後にGorillazのような編集主体的プロジェクトでより明確に現れるが、すでに2000年代前半の時点で兆候は顕在化していた。

同様の傾向は美術の領域にも見られる。特定の様式や運動に帰属することよりも、複数の参照を並置しながら制作が行われるケースが増え、作品は一つの解釈へと収斂するよりも、複数の読みを許容する構造を持つ。そこでは、物語の直線性よりも、断片の同時存在が重視される。ある作品のなかに複数の時間が重なり、異なる文脈が同居する。観者や聴者は、それらを一つの意味へとまとめ上げるのではなく、並置されたまま経験する。

この並置的状況は、しばしば不安定さや不完全さとして受け取られる。しかしそれは、統合の欠如ではなく、統合を前提としない状態の出現と考えるべきだろう。複数の世界が同時に存在するという感覚は、単一の物語では捉えきれない現実の複雑さを反映している。表現はその複雑さを整理するのではなく、持続させる方向へと向かう。

モス・デフの2作目が持つ散らかり方は、この時代的状況のなかで改めて意味を持つ。そこでは直線的な成長物語や様式の純化は主題ではない。むしろ、複数の関心が同時に存在し続けること、そしてそのなかでなお冴えや切実さといった表現の質が維持されることが重要となる。統合を経た上での並置というこの状態は、現在の芸術全般に広がる傾向の一つとして捉えることができる。

統合の時代が終わったわけではない。むしろ統合は、依然として一つの強度を持つ。しかしそれは唯一の道ではなくなった。複数の文脈が並置され、異なる世界が同時に存在する状況のなかで、表現は新たな持続の形を模索している。モス・デフの軌跡は、その移行を体現する一つの例として読むことができる。直線的な物語の次に現れる並置的な時代。そのなかで生まれる表現は、統合の完成度ではなく、並置されたまま持続するテンションによって支えられているのである。

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