量子リズムのダンス鍋 ― マイルス・デイヴィス《On the Corner》

音楽

「内面のジャズ」から「社会のジャズ」へ ― 《In a Silent Way》との対比

《On the Corner》の冒頭を初めて聴くと、多くの人が奇妙な浮遊感に襲われる。まるで曲の途中に突然投げ出されたかのようで、どこが拍の頭なのか、どの方向にグルーヴが流れているのかすら判然としない。この“どこから始まったのか分からない”感覚は、単なる奇をてらった演出ではない。実際には、拍の頭を探そうとする人間の知覚構造そのものを撹乱する、きわめて高度なリズム心理操作である。音楽を聴くとき、私たちの脳は条件反射的に「ここがワン(頭)だ」と判断しようとする。しかし《On the Corner》は、その判断の土台となる要素──強いアタック、低音の落下点、反復パターンの整列──を意図的に提示しない。そこにあるのは、多層的にズレ続けるパルス、表か裏か分からぬアタック、そして“その続き”のように始まる音の束だけである。

この状態は、まるで鍋の中で泡が弾け続け、同じ表面が二度と現れないような不確定性に満ちている。拍の頭を探そうとすると消え、別のパルスに乗ろうとするとさらに別の揺れが出現する。身体は着地できないまま、しかし確実に揺れてしまう。まさに“グルーヴの量子化”と言うべき現象だ。音の粒を掴んだと思えば波のように広がり、波として捉えたと思えば粒に戻る。この決定不能性こそが、《On the Corner》の最初の数秒からすでに炸裂する“魔法のグルーヴ”であり、聴き手を鍋の中心に吸い込むトラップとして設計されているのである。

このような“途中の入口”は偶然ではない。《In a Silent Way》が漂う静謐な円環の宇宙であったなら、1972年の《On the Corner》は、跳ねる泡と渦巻くスープの中に身を置く、動的な浮遊体験である。冒頭は、まるで曲の途中に飛び込むように始まる。テーマやイントロはなく、いきなりリズムが立ち上がり、聴く者は鍋の中に放り込まれるような感覚にとらわれる。これは偶然ではない。マイルスは「入口」そのものを意図的に破壊し、聴き手に“すでに始まっている世界”へ落下させる装置をつくったのである。

この〈すでに始まっている〉という構造は、どこかセザンヌ的な「未完成の完成」を思わせる。セザンヌの風景画が、対象を完結した像として提示するのではなく、見る行為そのものの生成過程を画面に残すように、マイルスは《On the Corner》に“生成の途中”という質感を刻んだ。瞬間を固定せず、むしろ揺らぎを残すことで、聞き手が音の生成へ能動的に参加する空間がひらかれる。その意味で本作は、音が「何であるか」よりも、音が「どのように立ち現れるか」を重視する、極めて現象学的なサウンド構造と言える。

マイルス・デイヴィス

1970年前後のアメリカ社会 ― ブラック・カルチャーの位置づけ

実際、録音現場ではこの“生成の途中”をつくり出すために、マイルスはメンバーを極端な緊張状態に置いた。指示は曖昧で、時にまったく言葉にならず、突然の怒声や無言の中断が続く。彼は本番テイクを告げないままレコーディングを始めることで、“いつが本番か分からない”状態を維持し、演奏者が瞬間瞬間に全感覚を集中せざるを得ない状況を生み出した。これこそがマイルス流の「投げる」セッションである。計画的に整えられた秩序の中ではなく、不確定性の渦の中でこそ、彼が求める“決定不能なリズム”が立ち上がる。

この不確定性の背景には、当時のマイルスの体調と精神状態もある。痛み止めやドラッグ、慢性的な疲労が重なり、彼はしばしば神経質で攻撃的な状態にあった。しかし、その不安定さは単なる混乱ではなく、異常なまでの集中力を生む方向へ作用した。周囲の証言によれば、彼はスタジオの隅で動かずにじっと音を聴きつづけ、ある瞬間にだけ急に「そこだ!」と叫び、演奏を一気に方向転換させたという。その判断は直感的で、感情的で、しかし圧倒的に鋭かった。

だが、この“量子煮込み”の鍋が成立した背景には、スタジオでの偶然性や編集技法の革新だけでなく、当時のアメリカ社会そのものが孕んでいた緊張と振動が深く関わっていたことを見逃すべきではない。《In a Silent Way》で一度は“自己の静かな中心”へと沈み込んだマイルスは、そこから地上へと戻ったとき、もはや穏やかに瞑想を続けられるような地点には立っていなかった。街はざわめき、差別は形を変えて残り、黒人コミュニティは新たな表現と言語を渦状に生み出しつつあった。そこに広がるのは、静かに自己を見つめるための部屋ではなく、不穏な気配を孕んだアメリカの街路そのものだったのである。

1960年代末から70年代初頭にかけて、公民権運動がいったんの成果を見せる一方で、その後には挫折や苛立ち、制度の側からの鈍い反撃が続いていた。ブラック・パワー運動は高揚と危機のはざまで揺れ、ジャズは徐々に白人中産階級向けの“上品な芸術音楽”として包装されつつあった。マイルスは、その変質を肌で感じていた。ジャズクラブはもはや黒人の若者が集う場ではなくなりつつあり、代わりにファンクのクラブ、ストリートのリズム、そしてのちにヒップホップへとつながる都市的ビートが、新たな生命線を提示し始めていたのだ。マイルスにとってその現実は、「外の世界の動き」ではなく「自分の音楽の根が向かうべき場所」として響いた。

《On the Corner》の音像 ― 量子化されたグルーヴと都市の泡立ち

そういう意味で、《In a Silent Way》の内面性と、《On the Corner》の都市的渦は、切断されているように見えて実はひとつの連続した運動である。瞑想的な静寂へ深く降りたのち、その静寂そのものが社会の騒音や暴力によって揺さぶられた──という流れがある。内なる宇宙を凝視することが、現実の街の音を鋭敏に受け取る耳を結果として開いてしまったのだ。

だからこそマイルスは、黒人の若い世代が聴いていた音、つまりファンクの跳ねるリズムや、プロト・ヒップホップ的なストリート感覚に鋭く反応した。《On the Corner》において、彼が求めたのは「ジャズの未来」ではなく、「黒人の未来」であったとさえ言える。あるいは、音楽という形式の内側に閉じていたジャズを、再び都市の生々しい時間へと、大胆に接続し直そうとしたのだ。そのためには、従来の“楽曲の導入部”という概念すら邪魔だった。音楽はイントロから始まるのではない。街は、現実は、黒人の身体は、すでに鳴っている──その感覚のほうが、よほどリアルだった。

だから《On the Corner》の入口はあれほど唐突で、編集された「途中」から始まるように響く。聴き手はどこが頭拍か、どこが表か裏かさえ判断できない。これは単なるスタジオ編集の偶然ではなく、「すでに始まっている都市のリズムへ、そのまま投げ込まれる」という身体感覚を音として体験させるための仕組みだった。ビートの“一拍目”が撤去されることで、リズムの地面が見えなくなり、聴き手は宙に浮かされたまま、音の渦に巻き込まれる。まさにマイルスが生きていた1970年代の大都市そのものの感触である。重力がずれ、街のビートが勝手に身体を持っていくあの感じ──それをミックスと編集の技術で再現したのが《On the Corner》のあの“途中性”だ。

視覚と言語のストリート化 ― ジャケット・アートに表れた都市性

そして、この音の姿勢は視覚面――つまりジャケットアートにも明確に現れている。ポップアート的な洗練や抽象化ではなく、むしろ大胆な色彩と漫画的な線が交差する、ストリートの落書きのような生々しさがある。これは明らかに、都市の壁、黒人のヘアスタイル、ファンクのファッション、コミュニティの雑多なエネルギーを意識した造形である。同時期、世界ではすでにグラフィティ文化の原型が街角に芽生えつつあり、1974年にはヒップホップが本格的に誕生する。つまり《On the Corner》のジャケットは、“アート”というより“ストリートの視覚言語”に接続された表現なのだ。ここでもまたマイルスは、前衛芸術の精密な文脈より、黒人コミュニティが生み出しつつあった未来的ビジュアル文化へ身を寄せている。

都市的グルーヴの魔法 ― 開始点の不在と後からの飛び乗り

結果として、《On the Corner》全体は、単なる音響実験でも、単なる編集の妙技でもなく、70年代ブラック・アメリカが体験していた「裂け目と更新」の瞬間が、音そのものとして鍋に放り込まれ、煮立ち、泡立った姿そのものになっている。音は開始点を示さず、社会もまた開始点を示してくれない。音楽はすでに走っており、街もすでに動いている。聴き手はそこへ“後から飛び乗る”しかない。この構造こそが、都市的グルーヴの魔法であり、マイルスがねじ曲げた“拍の地平線”なのである。

あーとむーす画 アクリル B3

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