
先日あらためて新海誠の『君の名は。』『天気の子』を見た。
これらの作品には、明確な主張がある。世界は分岐しているが、選ばれるのはこの身体、この関係、この一回であるということ。多世界的な想像力と、どうしようもなく一回性を引き受ける身体。その緊張関係は、非常にわかりやすく、感情として回収される。
だが、それ以上に印象に残るのは、物語そのものよりも、感覚が先に動いてしまうという体験である。
映像、音楽、編集の同期が、理解や判断を待たずに、観客の身体を巻き込んでいく。物語を追う以前に、すでに知覚のモードが切り替えられている。
この感覚は、アニメーションという表現形式と深く結びついている。
アニメは最初から現実の再現ではない。観客は冒頭の一瞬で、「これは現実ではない」という前提を引き受ける。その結果、起こる出来事の妥当性や現実性を検証する姿勢は、早い段階で解除される。
代わりに立ち上がるのは、「何が起きてもよい」という、感覚への能動的な委ねである。
この委ねは、受動性ではない。
むしろ、現実を疑う力を一時的に手放すことで、光や色、リズム、空間の密度といった要素に、より鋭敏になる身体の使い方だ。新海作品は、その状態を前提に設計されている。
映像は、物語を説明するための背景ではなく、観客を包み込む環境として機能する。
空や雲、雨粒、都市の反射は、現実以上に高い解像度で配置され、どこを見ても感覚が飽和している。この過剰さは、写実から来るのではない。むしろ、現実の「感じ方」を再構成するための操作である。

音楽との同期もまた、感情表現というより、身体操作に近い。
編集の速度、カメラの移動、光の変化が音楽と結びつくことで、観客の呼吸や注意のリズムが、映画の内部に揃えられていく。見ること、聴くこと、感じることが分離されず、一つの反応として束ねられる。
このとき起きているのは、アート文脈で言う「知覚の拡張」に近い。
新しい情報を与えるのではなく、世界を受け取る回路そのものを、一時的に組み替えること。没入型インスタレーションや環境芸術が試みてきた問題系が、物語映画の形式の中で、別のかたちを取って現れている。
物語は、その拡張された知覚を支えるフレームとして機能する。
感覚が拡散しすぎないよう、観客を回収する安全網として、物語が置かれている。だからこそ、新海作品では、映像と音の実験が、かなり先まで行くことができる。意味は最終的に回収されるが、その過程で、感覚は十分に逸脱できる。
ここで扱われている身体は、最終的には救われ、選択によって意味づけられる。
それは、回収されない身体性をとどめる表現とは異なる。だが、その違いは優劣ではなく、方向の差である。

新海誠の映画は、世界を遅らせはしない。
代わりに、知覚の解像度を極端に高めることで、この世界を別の仕方で経験させる。
それは、流れすぎる環境に対して、感覚を一気に同期させるという応答であり、アニメーションという前提を最大限に引き受けた結果でもある。
物語が終わったあと、感情はきれいに整理される。
しかし、映像と音によって一度切り替えられた知覚の感触は、完全には元に戻らない。
そのわずかなズレの中に、新海誠作品が「いま」と接続してしまう理由がある。


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